50年前、日本列島の南海の「真珠」が返還された
© 写真 : Pixabay/Kanenori沖縄の日の出
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1972年5月15日、27年間の米国の占領を終え、沖縄は再び故郷に返還され、日本に施政権が移された。日本の最南端の県の住民は、歴史上多くの困難な時期を経験したが、豊かな文化的伝統を保ち、これまで通り、隣国との平和と調和を保ちながら暮らすことを願っている。沖縄返還50周年にあたり、通信社スプートニクはアジアの南海の「楽園」の歴史を振り返ることにする。
南海の貿易の十字路
歴史的記録は、現代日本の最南端に位置する南西諸島を450年にわたり琉球王国が統治していたことを証明している。琉球諸島は天然資源に乏しく、そのため王国の住民は海上貿易を活発に行っていた。南海のこの小国は、東アジアや東南アジアの国々から商品を輸入し、転売するための通過点の役割を果たすようになった。琉球の船舶は中国や日本、韓国、ベトナム、ジャワ島など多くの国々の港に寄港していた。
また、琉球王国はすべての隣国と友好関係を維持することに努め、たとえば倭寇に略奪された都市のために中国と日本の間を取り持つなど、しばしば敵対関係にある国々の間で荷物移送の仲介役を担った。こうした状況は、1879年に明治政府が琉球王国を併合し、正式に沖縄県となるまで続いた。
© 写真 : Cartoonist for Marumaru Chinbun1879年5月24日付の團團珍聞に掲載された、中国の足を引っ張って「琉球の巨像」を独占しようとしている日本」というキャプションが付いた漫画。
1879年5月24日付の團團珍聞に掲載された、中国の足を引っ張って「琉球の巨像」を独占しようとしている日本」というキャプションが付いた漫画。
琉球独自の文化
琉球王国では独自のユニークな文化が育まれたが、それらは、海上貿易で緊密な交流が行われていたアジアの国々の文化を吸収することで形成された。例えば、琉球王国で書かれた書物は、中国や日本では見られない形式で書かれていた。宗教もまた、琉球の巫女「ノロ」の信仰を含む多くの異教の伝統の要素と、仏教の神々の崇拝を組み合わせたものとなった。いたずら好きで知られる木の精霊「キジムナー」は、今でも沖縄の子どもたちの間で人気がある。沖縄にはキジムナーフェスタという児童向けの演劇イベントがあるほどで、観光客向けの道路標識にもこの木の精霊が描かれている。
沖縄は、屈強な闘い方を特徴とする格闘技で世界中に知られている。このスタイルは通称「手(ティー)」と呼ばれる。
琉球王国のグスク(城塞)や関連遺産がユネスコの世界遺産に登録されていることは、沖縄の独自文化が世界的に認められていることを証明している。
沖縄の人々は何世紀にもわたる伝統的文化を大切に保存している。現在、沖縄芸術大学では、伝統的な男女の舞踊や太鼓の演奏、芸術的なガラスや陶器、琉球漆器、絹織物や絹染めなどの専門家の育成を行っている。
1945年の沖縄戦は、人間と文化にとっての惨禍となった。 沖縄の住民の3人に1人が犠牲となり、何世紀にもわたって築かれた文化財が破壊された。首里城などの歴史的建造物が石片や灰に変わったことから、戦後、沖縄の文化を再建する必要があった。
沖縄戦
第2次世界大戦の終わり、1945年の春に米軍が上陸したことにより、沖縄では82日間にわたる血みどろの戦闘が繰り広げられた。
多くの兵士が命を落としたが、それ以上に民間人が犠牲となった。島の南部に開設された「ひめゆり平和祈念資料館」は、当時の様子を今も伝えている。記念館にはガマ(伊原第三外科壕)の実物大模型があり、内部を見ることができる。また、ガラスケースには、髪用リボンや鉛筆、手帳、マスコット人形、その他の小さな雑貨など、女子学生がカバンに入れて持ち歩くのが好きそうなものが展示されている。これらはすべて、日本の負傷兵を助けるために動員されたひめゆり学徒隊の女学生222人の遺品だ。
米兵は掃討作戦の際、彼女らを銃撃し、手榴弾で殺害した。
© AFP 2023 / Toshifumi Kitamuraひめゆり平和祈念資料館
ひめゆり平和祈念資料館 【アーカイブ写真】
© AFP 2023 / Toshifumi Kitamura
米国による占領
サンフランシスコ平和条約に従って日本が降伏した後、琉球諸島は米国の支配下に置かれた。米国は狭い地域に膨大な数の軍事基地を配置した。こうして米国は、住民から肥沃な土地の大半を奪い、手つかずの自然が残る美しい亜熱帯の島、まさに日本の「宝石」を「不沈空母」に変えてしまった。
第2次世界大戦前、沖縄県民の70%がサトウキビの栽培と加工に従事していたが、戦後は生きる糧を失い、基地そのものや、基地周辺の店やレストラン、バー、クリーニング店、理髪店で米国人を相手に商売をした。こうして島民は生計を立てることができたが、島の経済には何も寄与しなかった。
日本への返還
米国の占領は、沖縄と本土の両方で抗議運動を引き起こした。しかし、米国は、アジア太平洋地域での最大の軍事的戦略的利益を求めて、早急に南部の県を日本に返還しようとはしなかった。結局、非核政策を宣言していた日本政府は、沖縄返還の代償として、有事の際の沖縄への核兵器の持ち込みと通過に、秘密裏に合意したと言われている。
この米国の外交的勝利を受けて、1972年に沖縄県の管轄権は日本に戻された。
日本政府は沖縄の経済発展の方法を模索したが、インフラの不整備や電気代の高騰、真水不足、高い地震学的リスクなどから、観光以外の産業の創設が困難と判断された。恵まれた気候や豊富な海洋生物、美しく透明な海、あらゆる色のサンゴ礁、この地でしか採取できない希少な黒真珠、手つかずの自然の貴重な美しさを残した沖縄は、世界中の観光客を必ず魅了すると日本では判断がされ、それは間違ってはいなかった。
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沖縄の本土復帰後の50年間に、県内には国際クラスのホテルや保養施設、ウォータースポーツの中心地、博物館、植物園、水族館が登場した。沖縄料理店の巨大なネットワークが栄え、そこでは琉球名産の泡盛が観光客に振舞われている。沖縄では年間を通じてイベントやフェスティバルが開催されている。
しかし、日本の総面積の約0.6%しかない沖縄に、在日米軍施設の7割が集中しているという事実が、「楽園」という感覚を著しく損なわせている。そのため、かつての南海の貿易の交差点は軍事的拠点に変わるおそれがある。
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