日本政府、中南米における日系社会との連携望む 移民の歴史と日系人の今
2023年1月11日, 20:09 (更新: 2023年1月11日, 20:22)
© AFP 2023 / Nelson Almeidaブラジルへの移民開始100年の記念式典に連列する日系人。2008年、リオデジャネイロのサンボードロモで。
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8日、ブラジル・サンパウロを訪問中の林芳正外相は、外務省内に「中南米日系社会連携推進室」を設置すると明らかにした、と時事通信が報じている。日本外務省によると中南米に住む日系人はおよそ230万人いるが、近年では日系6生も誕生し、若い世代を中心に、日本のことをあまりよく知らない人も多い。今回の措置は日本と中南米の日系社会との絆を改めて強固にするものである、と記事は伝えている。
日系移民の始まり
中南米には、日本にルーツを持つ日系人が多く住み、230万人のうちブラジルには最多数の190万人が暮らしている。もともと日本人の移住は、1868年、砂糖農園での仕事に従事するため、ハワイへの移住から始まった。当時の日本は幕末から明治にかけて、農村における過剰人口の問題に直面していたのである。しかしハワイは1898年に北米に合併され、移民が禁止される。更にはヨーロッパ、アメリカ、ロシア各地でほぼ同時に黄禍論が湧き上がった。日本人や中国人が、白人人種に脅威を与えるという差別主義が流行したのである。これを受けて、移民先として注目されたのが南米であった。
ブラジルへの集団移住は、1908年、781人の日本人が笠戸丸でサンパウロに向かったことから始まった。
© 写真 : Public domain/Arquivo Nacional笠戸丸。1900年英国で建造。ロシア義勇艦隊協会が国民から義援金お集め、戦時の病院船として購入し、日露戦争でロシア艦隊と旅順港に入ったところを日本陸軍の攻撃で沈没。日本が接収し、海軍の所属となって「笠戸丸」と改名。
笠戸丸。1900年英国で建造。ロシア義勇艦隊協会が国民から義援金お集め、戦時の病院船として購入し、日露戦争でロシア艦隊と旅順港に入ったところを日本陸軍の攻撃で沈没。日本が接収し、海軍の所属となって「笠戸丸」と改名。
サンパウロ州政府との契約により、コーヒー農場において就労することになったのである。奴隷制度の廃止で、ブラジルは労働力を必要としていた。しかも単なる出稼ぎではなく、長く定着して欲しいという狙いから、日本に対し家族での渡航を強く求めた。
© 写真 : Public domain/Arquivo Nacionalブラジルへ最初の日本人移民団を運んだ笠戸丸の乗船者リスト
ブラジルへ最初の日本人移民団を運んだ笠戸丸の乗船者リスト
しかし労働者はほとんど単身だったため、偽装結婚で夫婦を装った男女もいた。当時、1908年6月25日付けの地元新聞は、日本人を「清潔で規律正しい国民」と評している。コーヒー農場での不作や不慣れな労働は日本人には過酷で、数年働いて帰国しようと思っていた人も、思うように稼ぐことができなかった。
1924年以降、日本政府は移民をより積極的に送り出すようになる。この年に起きた関東大震災の被災者に南米移住を推奨する目的で渡航費に補助金を出したところ、希望者が多数集まった。それを受け、船代や移民会社の手数料を支給するなど、国策としての移民政策が推進された。こうして、第二次世界大戦で中断されるまで、少なくとも24万人が中南米へ移住した。
反日感情
1930年、革命によって誕生した新政権のもと、ブラジルでもナショナリズムと排日論が高まった。さらに1931年満州事変が起きると、ブラジルでも反日感情が高まった。賛否両論あったが、新しい法律により、移民の数を大幅に制限されることが決まった。ブラジルの動きを受けて日本では、文化親善の目的で使節団を派遣したり、ブラジルで日系人が栽培した綿花を輸入したりと対策を講じたが、日本人排斥の流れは変わらず、学校における日本語教育の禁止や日本語学校閉鎖へとつながった。戦争は日系人の間に仲間割れを起こした。特に戦後、日本の敗戦を認めることができず日本の勝利を信じる一派がテロ行為を行い、ブラジル社会の反感をかった。
戦後の移民、逆転現象
戦争による中断を経て、日本の移民政策は1952年に再開された。ブラジル、パラグアイ、ボリビア、アルゼンチン、ドミニカ共和国へと拡大していき、1955年には年間での移住者は1万人を超え、その後も増加を続けた。新たな移民は既成の日系農場で働いたり、開拓者として入植した。1960年代以降、日本が目覚ましい経済成長を遂げるようになってからは、海外へ行くメリットがなくなり、移民数は急減した。多くの国で日系人は農業分野で貢献を果たしたが、ドミニカ共和国では入植が失敗し、事実上の棄民政策と批判され、日本政府は過ちを認めた。
1980年代後半、日本がバブル景気に沸く頃には、日系人が日本へ出稼ぎに来るという逆転現象が生じた。1990年の入管法改正で要件が緩和され、南米からの日系出稼ぎ者が急増。しかし、戦後の集団移住が中心だった地域は比較的日本文化が残っているが、移住の歴史が古い国、例えばペルーでは、現地人との混血が進み文化面ではまったくの外国人であるなど、政府や企業の目論見は外れ、雇用トラブルが頻発した。しかしペルー人は出稼ぎと言うよりは、治安の良さや生活のしやすさを来日の動機としており、家族を呼び寄せ定住・永住するケースが多いという。
現在、中南米における日系人は日本企業に研修に来たり、現地で日本にゆかりの深い施設を運営するなど、両国の発展に寄与している。しかしこういった民間施設はコロナ禍の影響を大きく受けて経営が苦しくなり、活動に制限が出ている。日系社会の世代交代が進み、日系人としてのアイデンティティに悩む若者もいる中、移住の歴史や日本文化を学ぶ機会をより多く設けることは、日本と各国の親善につながるだろう。