【解説】韓国の発展に向けた日本の貢献:経済、交通、教育

© 写真 : Public domain/Bureau d'information coréen三・一独立運動
三・一独立運動 - Sputnik 日本, 1920, 21.03.2023
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日本による植民地支配に抵抗して1919年に起きた最初の独立運動「三・一運動」の記念日である3月1日、韓国の尹錫悦大統領は唐突に、日本との関係を改善し、反日的な政策をやめ、防衛分野において日本と米国との協力を行うよう呼びかけた。尹大統領は、こうした日本との関係の変化について、韓国を不安にさせる世界情勢が原因であると述べている。中国とロシア、また北朝鮮と隣り合っているという事実は、深刻な懸念を呼び起こすものである。いろいろな問題はあっても、日本は韓国の同盟国であり、こうした世界情勢にあって、歴史的な恨みつらみを言い続けるのは正しいことではないだろう。関係改善というのは、それが必要である限り、常に良いことである。

貿易関係と輸送の発展

韓国の日本に対する主な不満は、日本による植民地支配の歴史に関するものであることから、今後、日韓関係が改善されていけば、この歴史的な時代に対してもいくらか再評価されることが期待される。
当時の日本の政策は、日本人の悪魔化に至るまで、韓国にとってきわめて否定的なものであると捉えられがちである。もちろん、日本の朝鮮統治時代は、国家の独立性を失った朝鮮人にとって辛いものであり、とりわけ戦時中は残虐な行為や犯罪も多かったことは事実である。
しかし、朝鮮を占領していた日本の政策は、矛盾を持つものであった。日本は朝鮮の独立性を奪いはしたものの朝鮮の発展に大きな貢献を果たしたのである。
昭和13年(1938年)の朝鮮総督府の施政年報を見ると、そこには、昭和天皇即位直後の社会・経済発展の成果がまとめられている。
昭和5年(1930年)には、朝鮮の貿易高は6335万円だったのに対し、13年(1938年)にはそれが1億9355万円にまで増加した。8年で約3倍の伸びである。また輸出は2665万円から8796万円に、輸入は3670万円から1億559万円になった(朝鮮総督府施政年報、昭和13年度、354)。
朝鮮の輸入が輸出よりも多かったのは、朝鮮人を含む朝鮮国民に購買力があったことを物語っているのは興味深いことである。
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また経済の発展については、鉄道に関する数字からも窺える。
昭和9年(1934年)、朝鮮には3077キロの鉄道が敷設されていたが、13年(1938年)には、それが3831キロにまで延伸している。この間に旅客輸送は2560万人から4500万人に、貨物輸送は760万トンから1億3900トンに増大した。そして鉄道の収益は4960万円から9510万円にまで増加した(朝鮮総督府施政年報、昭和13年度、397)。
特に石炭輸送は、121万9300トンから214万3100トン、鉄鉱石の輸送は63万2400トンから151万9500トン、セメントは35万4200トンから77万700トン、木材は42万800トンから85万4500トンへと大きく伸びた(朝鮮総督府施政年報、昭和13年度、398)。
こうした数字は、朝鮮の産業がきわめて急速に発展したことを示すものである。
さらに艦船についても同様のことが言える。
昭和2年(1927年)、朝鮮には805隻(排水量6万6800トンの蒸気船162隻を含む)しか船がなかったが、昭和13年(1938年)、朝鮮の艦船の数は1777隻(排水量14万3000トンの蒸気船681隻を含む)に達した。
これは急激な経済発展であり、朝鮮の人々もこれに積極的に参加した。新設される工場の労働者となり、人々は当時もっとも近代的な生産工程に加わり、そこで人々は知識や技術を手に入れ、経験を獲得した。
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徴兵された朝鮮の青年(1943年)

徴兵された朝鮮の青年(1943年) - Sputnik 日本
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徴兵された朝鮮の青年(1943年)

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戒厳令下の朝鮮(1900年代)

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戒厳令下の朝鮮(1900年代)

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朝鮮の孤児(1919年)

朝鮮の孤児(1919年) - Sputnik 日本
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朝鮮の孤児(1919年)

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日本統治時代の朝鮮の村(1919年)

日本統治時代の朝鮮の村(1919年) - Sputnik 日本
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日本統治時代の朝鮮の村(1919年)

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頭を下げる日本統治時代の朝鮮の人々(撮影時期不明)

頭を下げる日本統治時代の朝鮮の人々(撮影時期不明) - Sputnik 日本
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頭を下げる日本統治時代の朝鮮の人々(撮影時期不明)

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抗議活動で1カ月以上閉まっていた店を開けるよう迫る警官(1919年)

抗議活動で1カ月以上閉まっていた店を開けるよう迫る警官(1919年) - Sputnik 日本
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抗議活動で1カ月以上閉まっていた店を開けるよう迫る警官(1919年)

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徴兵された朝鮮の青年(1943年)

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戒厳令下の朝鮮(1900年代)

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朝鮮の孤児(1919年)

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日本統治時代の朝鮮の村(1919年)

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頭を下げる日本統治時代の朝鮮の人々(撮影時期不明)

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抗議活動で1カ月以上閉まっていた店を開けるよう迫る警官(1919年)

教育と通信

日本が朝鮮の経済発展を進めたのは、もちろん、自国の利益に基づくものである。日本には資源が必要であり、資源を採掘するためには工場や鉄道が必要となり、またそのためには、労働力と人材が必要であった。自らの政策による成果をより良いものにするため、日本は朝鮮人に対する教育の向上にも尽力した。
そこで、教育の分野においても、日本は大きな成果を上げた。
大正8年(1919年)、朝鮮には小学校898校、中学校18校、実業学校73校、実業補修学校73校のあわせて1786校しかなかった。しかし昭和13年(1938年)になると、小学校は3220校、簡易学校は1145校、中学校50校、実業学校77校、実業補修学校および大学135校と、教育機関の数はあわせて5063校になった。
小学校の児童数は13万2000人から115万3300人になり、中学校の生徒数は5100人から2万5800人になり、実業学校の生徒数は4400人から2万9700人になったほか、大学やその準備学校で学ぶ学生の数は1015人となった。学生の数は全体で18万4400人から138万6100人になり、実に7.5倍にも増加したのである。
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当然、日本は朝鮮人に対する日本語教育に大きな注意を払った。
昭和4年(1929年)に日本語を理解した人の数は90万100人、読み書きできる人の数は54万400人であったが、昭和13年(1938年)には、日本語を理解した人の数は132万6200人、読み書きできる人の数は139万1500人に上った(朝鮮総督府施政年報、昭和13年度、189)。
国の全人口2200万人のうち、およそ55万人の日本人を除いて、12%の朝鮮人が日本語を理解または読み書きできたという計算になる。当時、アジアでは、科学技術の言語としては日本語がもっとも発展していたことから、これはかなり貴重な知識であった。日本の書物から、当時の最新の科学技術に関する情報を知ることができたのである。
また通信システムの発展も注目に値する。
昭和9年(1934年)、朝鮮で電話契約をしている人の数は2万400人(うち朝鮮人は2700人)だったのに対し、昭和13年(1938年)には12万8000人(うち朝鮮人は4万8600人)にまで増加した。(朝鮮総督府施政年報、昭和13年度、446)。
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