【特集】「もし他国からの指示でなければ、これを止めることができたはず」ドネツクの聖職者、ウクライナ当局によるウクライナ正教会の迫害について語る

© 写真修道司祭フェオファン
修道司祭フェオファン - Sputnik 日本, 1920, 30.03.2023
サイン
2018年にウクライナでは正式なウクライナ正教会に対する大規模な国家キャンペーンが始まった。その理由は、ロシアとのつながりとされた。3月10日にウクライナ正教会のキエフ・ペチェールシク大修道院の修道士らが同月29日までに退去を命じられ、状況が悪化した。ドネツクの聖職者、修道司祭フェオファンはスプートニク通信のインタビューで、ウクライナ正教会を巡る状況について語り、なぜ現在の正教会は自分たちを守ることができないのかについて説明した。
スプートニク:キエフ・ペチェールシク大修道院の修道士らが、四旬節の時期に追放されました。このウクライナ政府の横暴についてどう思われますか?
修道司祭フェオファン:これはあからさまな悪魔的行為です。なぜなら、すべての正教徒にとって聖なるものである四旬節に、彼らが正教の聖域を奪い始めたということは、彼らはキリスト教徒ではなく、しかも正教徒ではないということを証明するものだからです。わたしたちは、四旬節に、キリストの最後の晩餐での聖体拝領に向けて心の準備をします。つまり、これは復活大祭、聖なるキリストの復活を前にした非常に尊い時期なのです。これは、自分自身、自分の考え、人生について深く思いをめぐらせるときであり、自分自身を高める時期です。そんな時期に、これほどあからさまな悪魔的行為が行われ、残忍な政権がすべてを破壊しようとしています。修道院に残ったものを基に彼らが作ろうとしているものは、まったくキリスト教でもなければ、教会でもありません。なぜなら第一にこれは不法に行われたものであること、次にこのような残虐極まりない手法で行われたからです。修道院だけでなく、教会や聖堂が占拠され、燃やされているのを我々は目にしています。最近、コルチンスキーとかいう人物が、モスカーリの教会(編集:ロシア総主教管轄の正教会のこと)も燃やそうなどと言っています。もしヨーロッパやその他のいわゆる文明国が、あらゆる法に対する平等、そして文明的なアプローチを偽善的ではなく真に支持しているのであれば、これを止めようとするでしょう。しかし、このような教会の占拠やそれ以外の行いに対し、非難しようという試みはまったく感じられません。
キエフ・ペチェールスク大修道院 - Sputnik 日本, 1920, 25.03.2023
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スプートニク:修道士の中にお知り合いはいますか?修道院はどのような雰囲気になっていますか?何か支援をされていますか?
修道司祭フェオファン:1人、修道士に知り合いがいますが、残念ながら彼も修道院から退去せざるを得なくなりました。幸いにも、彼は退去することができました。というのも、彼が言うには、修道院の中にいるのは危険らしいのです。修道院の入り口では常に武装した人たちが全員をチェックしていると言っていました。つまり、修道院での生活はかなりの緊張を強いられるもので、それで彼も退去を迫られたのです。彼自身は、今は安全な状態にあります。ですが、彼と話していて分かったのは、彼と交流がある修道院の兄弟たちの状況は今もかなり厳しいようで、精神的にもつらい状態にあるようです。
修道士たちが修道院を守ることができるか、見守りたいと思います。こうした出来事は過去にもありました。トロイツェ・セルギー大修道院を含む大きな修道院に侵入者が現れ、そしてそのとき修道院は自分たちの聖地を守ったのです。しかし残念ながら、今、善はなぜか戦う手段を持っていません。かつては善も戦いの手段を持っていましたが、キエフ・ペチェールシク大修道院という非力な善は、自分自身を守ることができません。ソロヴェツキー修道院も、トロイツェ・セルギー大修道院も、かつては自分たちを守ることができました。ポーランドからの襲撃を受けたときには、修道士も聖職者たちもその防衛に参加したのです。そして、善が自分たちを守ることができなければ、悪が勝利するのです。
スプートニク:その後、大修道院やウクライナ正教会はどうなったのでしょうか?
修道司祭フェオファン:1941年に占領されたとき、ドイツの将校で、キエフの組織指導者が大修道院を視察に訪れました。彼はこの大修道院というものがどういうものなのか、世界的な名所がどのようなものか興味を持ったのです。洞窟を案内されたとき、彼は聖スピリドン・ぺチェルスキーの聖骸の前で立ち止まり、この遺骸は何でできているのかとガイドに尋ねました。彼はこれが本物の遺骸であるとは信じられなかったのです。これは神の聖人の遺骸であると説明された彼はピストルを取り出し、その聖骸の手や体を殴りました。するとその体から温かい血が噴き出したのです。もちろん、彼はそこから大急ぎで逃げ出し、文字通り、翌日には大修道院は再開されました。つまり誰かが何かをしたわけではなく、すべては神が導いてくださったのです。そしてそれと同様に、修道士たちの中に民族主義者がいて、ナショナリズムというものに敬意を払い、それを声高に訴える人がいるということが神によって許されていて、そのことで大修道院は苦しんでいます。彼らはもしかすると、宗教の中にも現れている民族主義というものが、何ら悪いものではないと思っているのかもしれません。
スプートニク:ゼレンスキー大統領は、大修道院から聖職者を追放しても、そこから正教の真の精神は追い出せないということを理解していないのでしょうか?
修道司祭フェオファン:彼は真の精神などというものにも、修道士にも、まったく関心など抱いていません。彼が興味を持っているのはゼロがたくさんついたお金だけです。そして彼は指示されたことをやっているだけです。
ウクライナ政府による正教会の取締法案に国連人権担当事務次長補が懸念を表明 - Sputnik 日本, 1920, 18.01.2023
ウクライナ政府による正教会の取締法案に国連人権担当事務次長補が懸念を表明
スプートニク:ウクライナ正教会の代表者らは、自分たちは大修道院から退去することはないとして、教徒らに、「もっとも貴重な聖地」をあらゆる法的手段を使って守るよう呼びかけていますが、今後、大修道院の修道士や教徒らはどのような行動に出ると思いますか?
歴史的に見れば、先ほども申し上げたように、かつてそのようなことがあったときには人々は武器を手に聖地を守りました。しかし、残念ながら、今の人々は、昔の人とは違います。快適な暮らしをし、禁欲主義などというものは一切ない生活です。皆、高級車、高級家具、高級な生活をしています。キリストというものも何か高尚な考えのようなものになり、それ以上のものではなくなりました。当時は、聖書にも書かれているように、生きるとはキリストであり、死とは利益だったのです。もし人がこうした思いを持って、自らの大修道院、修道院、教会を守るなら、怖いものなど何もありません。しかし、もし人が何らかの限界を感じるときには、教会を守ろうとしても、誰にもその声が届かなければ、最終的には泣き出して、怒って出て行ってしまうだけです。これがわたしたちの今の姿です。キリスト教徒とは死を恐れぬ人間です。死を恐れない者は敵にも恐怖を与えます。
ビザンツ帝国、コンスタンチノープルはなぜ持ち堪えることができたのでしょうか。それは自分たちの手で、自分自身を守ることができたからです。彼らは自分たちを守りました。ですが、残念ながら、今のわたしたち正教会は無防備で、自分たちを守ることができないのです。
スプートニク:神への信仰心は、いかにして、ドンバスの人々が団結し、苦難の時期を乗り越える助けとなったのでしょうか?
修道司祭フェオファン:2014年に、もしドンバスが占領されれば、わたしたちがこれまでずっと大切にし、生きるすべとしてきたあらゆるもの、そして信仰を含め、先祖から受け継がれてきたすべてを失うのだということを理解していました。ここで人々の精神の崩壊が起これば、その後にはルテニア統一教会が、そしてその後にはカトリック教会がくるだろうことを理解していました。バチカンは1945年にはファシストの避難所であり、ナチス・ドイツ国防軍、親衛隊の避難所でした。つまり、本質的に、それは共和国防衛の問題でした。なぜなら、ドンバスを守ることができなければ、正教の信仰も教会や聖地も故郷の土地も手放さなければならなかったのですから。
わたしたちはどんな犠牲を払っても守ることを選びました。何としても生き残ろうとするのではなく、何としても守るという道を選んだのです。
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