大阪万博のソ連館で上映された3D映画 スプートニクQ&A

大阪で開催された70年万博は史上、その収益性、規模、知名度の点で最も評価された万国博覧会の一つとなりました。そのメインテーマとなったのが、「人類の進歩と調和」。どの参加国も、その国独自の文化的伝統を守りつつ、万博のテーマを解釈し、それぞれパビリオンの展示構成に取り組みました。そこで今回は、ソ連館に関心のあるスプートニクの読者から受けた質問、「ソ連館では果たして3D映画が上映されていたのか」、を取り上げたいと思います。当時の様子を一緒に見ていきましょう。
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果たして3D映画は存在したのか?

まずはソ連におけるホログラム、および3D技術の開発史を俯瞰しよう。1965年、モスクワの映画写真研究所ではA・ボルチャンスキイとV・コマルという二人の研究者を中心としたチームがソ連独自のステレオ70技術を開発した。映画に用いられるこの技術は立体的な3D映画撮影のために考案されたものだ。そしてまさにこの技術が70万博のソ連館では広く紹介された。万博がこの映画設計技術を世界的規模で披露する場となったのである。様々な展示品を取りそろえたソ連館の目玉がまさに映画コーナーだった。この映画コーナーにはサイズが異なる複数のスクリーンが設置されており、このスクリーンゆえに会場は魅力と迫力にあふれ、観客はその虜となったのだった。

大阪万博のソ連館で上映された3D映画 スプートニクQ&A

当時におけるステレオ70技術の優越性は誰もが認めていた。IMAXシステムを考案したカナダのグレーム・ファーガソンも、70年万博のソ連館に足を運んだうちの一人だった。当時、映画写真研究所の指導的立場にいたヴィクトル・コマルは、自ら考案したシステムの仕組みをグレームに余すところなく紹介したばかりか、研究用としてサンプルまで提供した。余談ながら、映画写真研究所のチームは映画界にもたらしたその技術的貢献が評価され、1991年にはオスカー賞に輝いた。

ではここで読者からの質問に話を戻そう。ここで重要なのは、今日の社会で理解されているような3D映画という概念が、その当時はまだ存在しなかった、という点だ。ソ連では1970年代初頭から3D映画の研究が始まり、1976年には史上初となる、正真正銘の3D映画が上映された。その上映場所となったのが、モスクワで毎年開催されていた学術会議UNIATECの会場だった。映画は27カ国から訪ソした学者や報道陣に紹介され、会場からは割れるような拍手が沸き起こった。ホログラムの特殊な小型スクリーンでは同時に4人の人間が(スクリーンの両サイドから)30秒間の3D映像を観ることができた。そのスクリーンでは、ロシアの民族衣装姿を着た女性が前面に現れ、クリスタル製の容器にはいった貴金属をゆっくり吟味している姿が映し出さていた。

映画以外には何が?

M・ポソーヒンとV・スヴィルスキイが設計したソ連館は万博の中で最「高」(高さ109メートル)の施設となり、その建物は空にはためくソ連の赤い旗を象徴していた。日本建築を代表する丹下健三はソ連館について、万博という満開の木に咲いた一輪の見事な赤い花、という美しい言葉を残したものである。

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メインホールの展示品は、革命家レーニンが抱いた主たる理想が実際どう体現されているかを芸術的手段で表現していた。パビリオンに足を踏み入れた観客の目にまず飛び込んできたのがレーニンの肖像画だった。このホールの展示品はどれもソ連の住人が受けた学校教育や課外活動を紹介したもので、いかにしてソ連社会が子供たちを理想的な大人へと教育していったかを知ることができた。パビリオンの2階には文化や様々な芸術を扱った展示コーナーが広がり、文学、美術、音楽、工芸品のほか、演劇やサーカス、ステージ・ショーの成果が紹介された。3階の展示コーナーでは、ソ連を構成する最大の行政区であるシベリアと極東ロシアの発展がテーマだった。このフロアでは、エネルギー産業や石炭業、精錬業、農業など、こうした地域の国民経済を支えた産業分野が紹介された。展示場を締めくくったのが科学とその発展を扱ったコーナーで、宇宙開発と人類発展のための有効活用がテーマだった。

万博終了後、展示品のほとんどが撤去され、パビリオンの姿はもはや写真やパンフレットにしか残されていない。万博の跡地には「EXPOメモリアル公園」が広がるが、そこには芸術家・岡本太郎による「太陽の塔」がそびえ立つばかりである。

ご質問はどしどし、メールでsputnik.jp.smm@gmail.comまでお送りください。

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