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このドラマに対する視聴者の意見は二つに大きく割れている。主に歴者学者や日本の実情に詳しい人たちが、このドラマには不正確なところや歴史的事実からの乖離が多いとして批判的である一方、これまでゾルゲを知らなかった人達は、ドラマが現実に沿っているかどうかを深く考えることなく、ストーリーにのめり込んで楽しんだ。
興味深いのは、ゾルゲが死後20年間、ソ連では忘れ去られた存在だったことである。1964年、ソ連共産党中央委員会第一書記のフルシチョフがフランス映画『ドクトル・ゾルゲ、あなたは誰なのか?』を見た。KGBから、これが架空の人物ではなく、ドイツのソ連侵攻の時期を誰よりも早く知らせた人物の一人であることを知らされたフルシチョフは、ゾルゲ事件について資料を用意するよう指示を出した。情報総局に委員会が設置され、アーカイブ資料や文書、ゾルゲと一緒に働いていた人々やゾルゲを知っていた人々の回顧録や記憶の調査が始まった。1964年9月4日、新聞『プラヴダ』にリヒャルト・ゾルゲに関する初の記事が掲載された。そして、1964年11月5日、ゾルゲにソ連英雄の称号が贈位された。
同1964年、ロシア人ジャーナリストで『桜の枝』の著者でもあるフセヴォロド・オフチンニコフがゾルゲの内縁の妻、当時すでに52歳になっていた石井花子に彼女の暮らす東京郊外で会っている。彼女は1949年、雑司ヶ谷にある刑務所の共同墓地でゾルゲの遺骨を探し出した。1950年、彼女は回想録を出版し、その報酬で東京の多磨霊園にゾルゲの墓のための敷地を購入した。それまで遺骨の入った骨壺は彼女の自宅に保管されていた。ゾルゲの名誉回復を受けて、ソ連政府は新しい墓石の設置費用を拠出する。黒い花崗岩の墓石には「ソ連英雄 リヒャルト・ゾルゲ」の文字が刻まれた。ソ連諜報員の記憶を守った石井花子の功績も認められ、ソ連国防省は彼女に少額ながら年金を支給するようになった。
1967年、石井花子はモスクワに招待され、ゾルゲが逮捕されるまでの6年間の共同生活についてテレビで語った。そのときの短いインタビューの映像も残っている。
石井花子は2000年に逝去した。88歳だった。現在、彼女の名前が刻まれた墓石はゾルゲの墓の隣に立っている。