東京ロシア語学院創立70年 現代日本でロシア語を学ぶ理由とは

2019年5月9日、戦後日本のロシア語教育界をリードしてきた東京ロシア語学院が創立70周年を迎え、特別展示会が世田谷区経堂の校内で開かれている。学院はロシア・アヴァンギャルド芸術家のワルワーラ・ブブノワや『研究社露和辞典』を編纂した東郷正延、また通訳者でエッセイスト米原万里が教鞭をとったことでも知られる、由緒ある教育機関だ。学院が次なる10年間の歩みを始めるにあたり、スプートニク日本が藻利佳彦学院長を取材した。
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スプートニク日本

激動の戦後日本でロシア語教育を支えてきた東京ロシア語学院(以後、学院)が創立から70年の節目を迎えた。長年にわたって教鞭をとってきたプーシキン学者の藻利学院長は展示会オープニング講演で学院が誕生した経緯と発展の歴史を振り返り、その貴重な伝統を若い講師や学生らと共有した。

学院が誕生したのは戦後の混乱が続く1949年5月9日のことだ。学院は日ソ親善協会(現在の日本ユーラシア協会)内部に設けられた「ロシア語委員会」が母体となっている。この委員会が行ったロシア語講習会がのちに学校法人化し、「日ソ学院」、「東京ロシア語学院」と名前を変えながら今日に至るまで教育活動を続けてきた。

戦前のロシア語教育は決して自由な環境下にあるとは言えなかった。1925年に施行された治安維持法は共産主義思想の摘発を目的としていたが、やがてその矛先は研究者にも向けられ、ロシア文学者や翻訳者、ロシア語学習者までも次々と逮捕拘禁されたという。そして戦後・東京の焼け野原で念願の自由を手にし、ロシア語講習会の講師となった人たちは帝政ロシアのナロードニキにならい、「ロシア語を民衆の中へ!」という旗印のもと、身を粉にして教育活動を進めた。

サンフランシスコ講和条約の発効に伴いソ連代表部が引き上げることとなり、代表部が所有していた約一万点のロシア語書籍が日ソ親善協会に寄贈された。書籍を収蔵する建物を見つけ出し、ロシア文学者米川正夫を館長として、日ソ図書館が開館された。その建物に学院も間借りして入り、ようやく「校舎」をもった学校としてのロシア語教育が始まる。

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さらに、日ソ共同宣言が調印された1956年、ロシア語講習会一期生を中心にしたラジオ講座開講嘆願署名を受けて、NHKの「ロシア語講座」が放送をスタートした。その初代講師を務めたのが学院で教鞭をとっていたワルワーラ・ブブノワと東郷正延だ。その後、人類初の宇宙飛行士ガガーリンや女性初の宇宙飛行士・テレシコワの来日を受けて受講者数が右肩上がりで増えたこともあれば、アフガン侵攻や大韓航空機撃墜事件の悲劇によって向かい風に立たされた時期もある。そして冷戦の東西対立が、米中の貿易戦争に置き換えられた現代における日本のロシア語教育は新たな局面を迎えている。

今日の日本社会でロシア語を学ぶ意義は果たして何なのか。藻利学院長によれば、露日間の相互理解は十分なレベルに達したとはいいがたく、ロシア市場に進出している日系企業も中国や韓国と比べて圧倒的に少ない。ロシアを隣国として見る意識が日本人の間であまりに希薄な状況に学院長は危機感を抱いている。

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また、戦後日本は無数の米軍基地を抱え、米国的発想を押し付けられて生きてきたものの、それが果たして「日本的な」考え方なのか、学院長は疑義を投げかける。学院長によれば、「知らぬ間に我々は米国の立場に立っており、日本の立場に立っていない」。日本の立場を客観視するのであれば、ロシアとの関係も考えるべきであり、隣国ロシアの考え方を知ることは最終的に日本の再発見にもつながる、と強調した。

今日に至るまで学院はロシア語能力検定試験やスピーチコンテストの開催など、学習環境の整備を率先して担ってきた。そして学院で学んだロシア語のスペシャリストたちは二国間の共同経済活動や文化交流の最前線で活躍している。

果たして次なる10年間の間に学院はどのような躍進を遂げるのだろうか。学院の活動から目が離せない。

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