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日露戦争後、6000人以上のロシア人捕虜が金沢郊外の収容所に収容された。なかにはそこで亡くなった人もおり、そうした人たちは地元の戦没者墓地に埋葬された。それぞれの墓の上には墓石が立ち、ロシア語と日本語で氏名、階級、死亡日が記されていた。1909年、捕虜の遺骨は長崎の稲佐悟真寺国際墓地の共同墓地に移された。金沢では1965年、残されたロシア人捕虜の墓石を集めた慰霊碑が作られ、「平和の木」が植えられた。
はたして草野さんはロシア人捕虜の子孫を見つけることができたのだろうか?スプートニクは在新潟ロシア総領事のミハイル・セルゲーエフ氏に話を聞いた。
ちなみに、この驚くような出来事はこれひとつではない。3年前にも写真が「子孫との絆をつくる」のに役立ったのである。イワノボ出身の写真家アリョーナ・ジャンダロワさんの家には、曾祖父のパーヴェル・ジャンダロフと日本人が写った写真が保管されていた。祖父は日露戦争で戦い、捕虜になって、約3年を日本で過ごした。アリョーナさんはこの写真をインターネットを通じて日本のネットに拡散した。しばらくして、1900年代初めに香川県善通寺市でこの写真を撮影した写真家の曾孫の女性から連絡があった。彼女は立木さとみさんといい、家族経営の写真サロン「立木写真館」の館長である。
1904年10月1日の「海南新聞」も見つかり、その中でパーヴェル・ジャンダロフさんは次のように言っている。「私は旅順の要塞近く行われた夜間戦闘で負傷した。私の右手に弾丸が打ち込まれた。私は出血していて、自分で包帯をまくことができなかった。負傷した日本人がやさしく包帯をまいてくれた。イシグロ少佐だった。私は日本人の優しさに感動した。彼は、敵と味方の概念を捨て、自分の水筒に水を入れ、私と分けあってくれた。朝になって日が昇り、とても暑くなったとき、私は彼が傷の痛みに苦しんでいるのを目にした。そこで、私は外套と銃で自分達のためにテントを作った。夕方の8時ごろ、日本の兵士たちが私たちを発見した・・・」
アリョーナ・ジャンダロワさんの曾祖父は捕虜収容所に入れられたが、あるとき偶然イシグロ少佐と会い、記念に写真を撮った。2016年、アリョーナ・ジャンダロワさんは曾祖父が収容されていた収容所の場所を訪れた。 彼女は立木さんとも会った。そしてこの二人の女性も記念写真を撮った。 その1年後、立木さんはパーヴェル・ジャンダロフさんが埋葬されているプスコフ州ミハイロフスコエ村を訪れた。何がそうさせたのかというスプートニクからの質問に、立木さんは次のように答えた。「パーヴェルさんの写真が100年以上の時を越えて人をつなぎ、縁を結んだ奇跡をロシアの方にも知ってもらいたい。講演を通じて平和や友好の大切さを訴えることを望んでいます。 」
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