「古きを温めて新しきを知る」 太古のメドヴェージ村と日本を結ぶもの

5月末、ノヴゴロド州メドヴェージ村郊外で恒例の発掘調査が行われた。この調査は日露戦争(1904-05)時に抑留された日本人捕虜の旧墓地で進められている。発掘調査は現地のボランティアや発掘調査隊、教職員、生徒の手で行われ、東京ロシア語学院の藻利佳彦学院長が全体の指揮を執っている。今年はこの発掘調査に「スプートニク日本」のリュドミラ・サーキャン記者も加わった。
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スプートニク日本

藻利学院長が日露戦争、そしてメドヴェージ村に抑留された日本人捕虜の歴史について調査を開始したのは20年以上も昔のことだ。藻利学院長がこのテーマに着手したのには理由がある。藻利学院長が生まれ育った愛媛県松山市には日露戦争後、ロシア人捕虜の収容所が置かれており、延べ約6000人近くの兵士や将校が暮らしていた。こうした捕虜のうち、97人が祖国の土を踏むことなく他界し、その亡骸は日本で葬られた。松山市の墓地はロシア人だけが埋葬されたものとしては日本唯一で、地元の子どもたちをはじめ、たくさんの人がその手入れを行っている。藻利学院長には、小さな頃に母親が「あそこにはロシアの兵隊さんが眠っているから、ひとつひとつのお墓に手を合わせなさい」と話していた思い出がある。

メドヴェージ村はノヴゴロド市とプスコフ市の間に広がる森の中にある。ここに日本人捕虜の第一弾が輸送されてきたのは1904年のことで、その数は約1800人にも達した。兵隊や軍事物資であふれかえるシベリア鉄道の列車に日本人を詰め込み、ロシアの端から端まで輸送したのには理由がある。メドヴェージ村の兵舎はその当時、無人状態だったことから大量の捕虜を一か所で収容できたため、当局側はメドヴェージ村が最適の場所と判断したようだ。また、メドヴェージ村には露土戦争(1877-78)の捕虜が収容されていた過去がある。さらに、この村から逃亡するのは事実上、不可能だった(それは恐らく地理的要因による。村は日本から何万キロも離れた距離に位置するほか、村自体も交通の便が悪く、深い森に囲まれている)。また、当時の権力者が敗戦に終わったものの、かりそめの戦果として日本人捕虜を利用しようとしたとも考えられる。

次第に日本人と現地住人の間には友好関係が生まれた。捕虜は自由に村を往来することが許されたほか、現地の旅人のための飲食施設に足を運び、ラプター・ゲーム(ロシア発祥のバット・アンド・ボール・ゲームで、野球の要素が多い)に興じることもあった。また、木製の玩具をこしらえて現地の子どもたちにプレゼントしたほか、伝統楽器を製作し、即興のコンサートで演奏することもあった。収容所が閉鎖されたあと、これらの楽器はサンクトペテルブルク演劇音楽博物館に所蔵された。

1905年にポーツマス条約が締結され、日本人捕虜の帰国が始まったものの、捕虜のうち19人は祖国の土を踏むことなく他界した。1908年にはその遺骨も日本に帰り、墓石だけが置き去りにされる形となった。そして100年後の2008年に村の人たちと藻利によって日本語とロシア語で死没者の名前が刻まれた祈念碑が建立された。

メドヴェージ村の旧日本人墓地ではいかに発掘調査が進んでいるのか、現在における発掘調査の意義とは何なのか。関係者を取材した。

藻利学院長

メドヴェージ村はアラクチェーエフ体制の時代に誕生した屯田兵の村です。住人は皆、農作業しながらいつでも兵隊になるという経験があるため、、捕虜になった兵隊気持ちがよく分かり、日本人将校を家に招待することもありました。

日本の場合、約7万2000人のロシア人捕虜が全国に散らばり、それだけたくさんの外国人が一挙にやってきたのは歴史上初のことでした。ロシア人捕虜は敵国人であり彼らのせいで自分たちの家族が戦死したり、負傷したりしているわけですから、日本人のロシア人捕虜に対する感情には複雑なものがありました。国が政策として決めたとおり、博愛の気持ちで捕虜に接しながらも、どこかに反感の気持ちがあり、石を投げたり嫌がらせをしたり、ということはどこの収容所でも時々起こっていたようです。

「古きを温めて新しきを知る」 太古のメドヴェージ村と日本を結ぶもの

ただし、メドヴェージ村は相当離れたところにありますし、地元住民からの反感はなかったようです。村人は日本人のお葬式にも参加してお弔いをしてくれていたことからも、日本人は同化していたようです。墓石が発見された1960年代、メドヴェージ村で捕虜が送った生活について日本でも報道されました。そうした報道を見て、元捕虜であった人たちが村に宛てた手紙も村の郷土博物館に残されており、「村にいたときは本当にお世話になった、忘れていません」という文面がほとんどで、、日本人捕虜が理由もなく暴力を振るわれることはなかったようです。

ヴィクトル・イワノフ(前メドヴェージ学校長)

日本人墓地に対する関心の波は二度にわたって起こりました。最初の波は1960年代のことです。落ち葉の下から墓石が偶然発見され、そこに記されていた漢字は大変な関心を集めました。郷土博物館には、日本人捕虜の滞在を物語る展示品がすでに保管されていたことから、アーカイブ資料の調査が行われ、ニーナ・イリイナ館長(当時)が自ら調査に取り掛かりました。当時の私は9年生(中学3年生に相当)で、まだナージャ・カルポヴァ先生もご存命でした。日本人将校のヒガキ・マサカズと恋に落ちたナージャさんとは彼女のことです。二人がそれほど親密な関係にあったとは思えませんが、恋愛感情はあったようです。ヒガキ将校は帰国間際、ナージャ先生に扇子をプレゼントし、そこにロシア語で「ナージャさんへ。ヒガキより、素晴らしい思い出のしるしにこれを送ります。どうぞ私のことをお忘れなく」と記していました。その扇子や、他の資料も郷土博物館に保存されていましたが、いまは写真しか残っていません。

「古きを温めて新しきを知る」 太古のメドヴェージ村と日本を結ぶもの

2度目の波が起こったのは2000年代初めでした。藻利さんが我々の村を訪問するようになり、その活動に自治体も協力することとなったのです。19基あった墓石のうち、現在は12基まで発見されました。そしてかれこれ10年以上、我々は藻利さんや生徒らと一緒に残る7基を探しています。なぜこういった活動を続けているか。それは歴史を記憶に刻むためです。この墓石はロシア語、私たちの村の歴史を彩る1ページであり、日本との絆であり、祖国を目にすることなくこの世を去った人々の歴史なのです。戦争を起こした張本人ではないのに、犠牲になったのは彼らなのです。

スヴェトラーナ・ポタポワさん(発掘調査の参加者で、小説「メドヴェージ村のナージャさん」の著者)

時が経つにつれ、私たちの記憶からも日露戦争の歴史は消え去っていきます。学校の教科書でも、この時代については手短にしか説明されていません。ロシア帝国が惨敗を喫したあの戦争を思い出すのが好きではないのです。小説の執筆にとりかかった当時、人口1000人程度のメドヴェージ村に1800人近くの日本人捕虜がいたことを知りました。これまで互いについてほぼ何も知らなかった露日の人々がこれほど大規模なレベルで交流したのは、歴史上これが初めてでした。ロシア人と日本人が経験した接近、発見、そして関係構築は、まさに東洋と西洋の密接な交流そのものでした。この歴史に私は魅了され、それで頭が一杯になりました。

アリョーナ・レスコ(調査隊に参加した生徒)

私はこの数年間、第二次世界大戦で行方不明になった兵士の探査活動に参加してきました。この活動をしていると、歴史に関わっているという、貴重な感覚がわいてきます。わたしが思うに、戦没した兵士に敬意を払うことはもちろん、戦没者の遺品を探し出し、遺族のもとに返すことは生きている私たちの義務です。私たちはノヴゴロドから調査協力にやってきました。藻利さんの活動に賛同していて、その調査に協力したいと思ったからです。藻利さんは捕虜の歴史を後世に伝えるべく奔走している方です。先祖に対し如何に接するべきか、藻利さんは素晴らしい例を見せてくれました。

今回の調査では土壌の表層部が撮影できる機材も投入したが、残る7基の発掘にはいたらなかった。しかし、参加者の意気込みから察するに、調査は今後も継続されそうだ。そして藻利学院長も引き続きメドヴェージ村に足を運んでくれることだろう。藻利学院長によれば、墓石が語り掛けてくるのだそうだ。「忘れないでくれ」と……。結びに代えて、藻利学院長からのメッセージを紹介したい。

「古きを温めて新しきを知る」 太古のメドヴェージ村と日本を結ぶもの

墓石が見つからないのはもうここ何年も続いているので、出てこなくても仕方がないことです。今回いくつか、ありがたかったことがあります。一つは、村長がかなり積極的に墓石探しに取り組んでくれたこと。例年になく熱心にトラクターまで使ってくれました。この方法が良いかか悪いかは別にして、おかげで、私たちがこれまで掘った地域がかなりわかってきました。もう一つは、新しくメドヴェージ村の学校以外の生徒が加わってくれたことでした。これは、もとメドヴェージ村学校の校長先生だったヴィクトル・イワノフさんと彼の教え子であるスヴェトラーナ・ポタポワさんの力が大きいです。地域の教育界を動かして、この歴史的事実を自国の歴史の中に入れてとらえ、日本と日本文化を知る機会にしようとしています。ただの墓石掘りで毎年訪問していましたが、少しでも彼らを刺激していたとしたら嬉しいことです。

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