敗戦と外交勝利 ポーツマス条約と日露戦争の終結

1905年9月5日、米国ニューハンプシャー州の都市ポーツマスで日露代表はポーツマス条約に調印した。これは日露戦争(ロシア側の表記で露日戦争、1904−1905年)を終結させるためのものである。日本に大敗を期したロシアが、どのようにして全てを失わずにすんだのか、振り返ってみよう。
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講和への転換

確かに日露戦争は、ロシアには敗北を意味しただけなく、ロシア人兵士の勇気と英雄的精神の象徴とはなったが、それでもロシア政府は日本海海戦(ロシア表記:対馬沖海戦)の大敗後、日本の示す提案をのまざるを得なくなった。日本は開戦した1904年7月の時点ですでにロシアに講和条件の交渉を持ちかけていた。

敗戦と外交勝利 ポーツマス条約と日露戦争の終結

実は、日本は開戦前の試算で戦費調達は1年が限界とふんでいた。

戦争の記録:日露戦争
つまり望みの綱は、ロシアの主力を満州へ南下させる前に、早い段階で勝利することだった。

しかも大きな兵力を誇るロシア軍を相手にすれば、日本軍はさらなる大きな人的損失を被りかねなかった。(日本側の戦没者数はロシア側の資料で5万8千人から8万6100人、一方日本の帝国書院の統計資料によると8万5082人。)

1905年4月、日本政府はセオドア・ルーズベルト米大統領に正式に講和の斡旋を申し入れた。


講和会議でも戦いは続く

講和会議にはロシア全権代表としてセルゲイ・ヴィッテ首相、ロマン・ローゼン駐米大使、日本側は小村寿太郎外務大臣高平小五郎駐米公使が参加した。

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和平交渉はそう簡単には進まなかった。

8月22日の講和会議は日本側が最後通牒的な要求を行った。

  • 朝鮮半島における「日本の行動にロシアは一切干渉しない」
  • ロシア軍の満州からの撤退
  • 遼東半島と南満州鉄道を日本に譲渡
  • 賠償金の支払い
  • サハリン全島の譲渡
  • 極東におけるロシア帝国海軍の兵力縮小

ロシア帝国ニコライ2世はこうした条件を拒絶。それでも決裂を望まないヴィッテ首相の強い求めで交渉は続けられた。

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決裂すれすれで長い論争が繰り広げられた末に、日本側は一連の講和要求を取り下げた。


ロシア側が獲得したものとは?

合意内容は以下の通り。

  • ロシア帝国は、日本が大韓帝国の同意を得ずに、その主権に触れる措置はとらないことを条件に、朝鮮半島における日本の国益を認める。
  • 満州からは日露の両軍ともが撤退する。
  • ロシア帝国は、旅順、大連および南満州鉄道の租借権を日本に譲渡する。
  • ロシア帝国は、サハリンの大部分の面積に対する領有権を手元に残し、日本には、南サハリン(サハリンの北緯50度以南)および付属島嶼に軍事要塞を建設しないという条件で、これを割譲する。
  • この条約は日露両国の貿易関係の確立と捕虜の交換方法を規定する。
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そしてロシア代表は、賠償金の支払い義務の放棄を日本に認めさせた。日本は逼迫した財政にあえぎ、賠償金の獲得に大きな望みをかけていたにも関わらず、ヴィッテ首相の交渉の粘り勝ちで賠償金放棄を余儀なくさせられた。逆に講和が成立せず、戦争が続行した場合、日本の国家財政にさらなる大きな打撃を蒙りかねなかったからだった。(帝国書院の統計資料によると、日露戦争の戦費総額は18億2,629万円)


条約締結の結果

もちろん、講和内容はロシアにとって厳しいものだった。「屈辱的な」ポーツマス条約に調印し、サハリンの半分を譲渡したヴィッテ首相は、その指導力に対する不満から「ポルサハリンスキー(サハリンの半分野郎)」との揶揄するあだ名をつけられた。

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しかし、全体を見てみれば、ロシアは戦争に負けたにも関わらず、ヴィッテ首相の尽力により講和条件を大きく譲歩させ、最小限の損失で戦争から抜け出すことができた。長期的な視点に立つと、講和条約の締結によってロシア政府は革命の機運抑制に注力できたのである。

一方の日本では、帝国主義者らが条約締結に強い不満を示し、戦争の再開と小村外務大臣の辞任を要求した。これにより東京では一時、日比谷焼打事件に代表される暴動が荒れ狂った。


社会主義革命で誕生したソビエト新政府は、1925年、日本との外交関係を樹立した際にポーツマス条約の法的な効力を認めた。しかし1945年、第二次世界大戦の日本敗戦により同条約は失効した。

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