法案の起草者が示す日の変更理由は、この日は、対日戦勝の日として旧ソ連では長らく祝日とされてきたからというものだ。確かに1945年9月3日は旧ソ連最高会議幹部会によって対日戦勝日として制定されていたが、実際にこの日が祝われたのは1945年と1946年の2回のみ。その後は、旧ソ連も、ロシアもこの日を祝うことはなかったが、サハリン州では9月3日は地域レベルの祝日とされてきた。ロシアでも世界と同じく、第2次世界大戦の終結日は公式的に日本が降伏文書に署名を行った9月2日とされてきた。しかし、議員たちが究極まで突き進み、旧ソ連の「対日戦勝記念日」という名称に戻さなかったのは、日本との関係を損なわないためだったと考えられる。起草者が「9月3日は第2次世界大戦の終結日(1945年)」であり、この日は戦闘状態から平和と和解の模索、協力に向けた移行を象徴するという構図を強調したのはしかるべき理由があった。
ロシア軍事歴史協会の学術役員を務めるミハイル・ミャグコフ氏は制定日の変更について歴史の公正への回帰であると強調している。
「9月2日、米国戦艦『ミズーリ』で日本の降伏文書への署名が行われた。旧ソ連を代表してクジマ・デレヴャーンコ将軍も署名を行っている。西側諸国ではこの日を第2次世界大戦の終結日とみなしている。しかし、艦船での署名をもって戦争が終結したとする必要は必ずしもない。なぜなら、この日には実際にはクリル諸島をはじめとして、赤軍と日本との戦闘は継続していたからだ。すべてが終わったのは9月3日であったことから、私たちはこの日が戦争の終結日だと考えている。ロシア下院は今、歴史の公正に回帰したのだ」。
ロシア科学アカデミー世界歴史研究所、戦史地政学センター上級研究員のドミトリー・スルジク氏は、スプートニクからのインタビューに対し、こうした決定は論争や疑念を呼ばないように専門家たちの討議を経て決議されねばならないとして、次のように述べている。
「ある意味で、これは対日戦勝日を公式的に9月3日に制定した旧ソ連の伝統への回帰といえる。また一方で、世界史ではすでに第2次世界大戦の終結日は9月2日と記憶に刻まれており、これはどうすることもできない。もちろん、9月3日がロシアではベスランの悲劇を思い起こし、テロリズムとの闘いを誓う日であることと、これはあまり整合性がとれていない。民族を一括りで抹殺したという点で、本質的にヒトラー主義も国家的レベルでのテロリズムだと言える。だから私は、歴史の専門家グループと討議すべきだったのではないかと思っている。対日関係では、今回の変更が大きな影響を与えるとは考えていないが、最悪の場合、もし軍事パレードが9月3日に予定されたなら、日本の代表はロシア訪問を辞退することになるだろう」。
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