店を方向転換させたマトリョーシカとの出会い
「Johnny Jump Up」は1998年にオープンした。しかし、店主の高橋 拓也さん(45歳)によると、最初はソ連グッズを扱う専門店ではなかったそうだ。高橋さんがロシアのマトリョーシカと出会ったことですべてが変わった。
高橋さん:「最初からロシアのものを取り扱う店として始めたわけではないです。もともとは世界中の色んな輸入の雑貨を持ってきて日本で売ろうということだったので、フランスやイギリスのものがあったり、またはドイツとか、メキシコ、タイ、インドネシア、色んな国の色んな物を置いてありました。お店がスタートしてしばらくそのように運営してきたんですけれど、他の店にもよくあるものが揃ってきて、あまり面白くないなと。もっと全然違う国のものを取り扱いたいということで、探してみましたら、ロシアのマトリョーシカに出会ったんです。」
高橋さんがマトリョーシカを知ったのは20年前のこと。しかし、高橋さんがロシアに行ったのは2013年が初めてだった。初めてのロシアでマトリョーシカ以外にも面白いものをたくさん発見した。
高橋さん:「マトリョーシカの魅力を知るごとに自分の力で買い付けをしたい気持ちが強くなっていったのですが、ロシアに行ったこともなければロシア語も話せなかったので、実際に行くようになるのにはちょっと時間がかかりました。それは2013年だったと思います。それで自分で行くようになった時に、古いおもちゃとか、子供の絵本とか、そういったものはもともと好きで、本当に良いものがたくさんあることにびっくりしました。」
高橋さんは「文化的なもの」、特にソ連時代のファッションやデザインの本や雑誌に愛着を感じるという。高橋さんはこうした本を大きな箱に入れて大量に保管している。今では捨てられることが多いこれらの本を、高橋さんは「もったいない」という気持ちで、忘却から救い出しているのである。
店の中では大きな宇宙コーナーも目を引く。高橋さんが宇宙に特別な想いを抱くのは、スペースシャトルとブランの時代に育った子ども時代の思い出からだ。宇宙コーナーにはソ連製のロケット形の掃除機のような驚く品ばかりでなく、当時の人がサインしたハガキまでもが置かれている。
高橋さん:「日本人は皆、ソビエトは恐ろしいという部分しか知らないので、こういうものを紹介してきたら面白いのではないかと思いました。」
「モスクワは東京と何も変わらない」
高橋さんは最初にモスクワに行ったときにも、特に困ることはなかったという。英語が分からなくても困ることはなかった。それどころか、モスクワは東京とあまり変わらないとさえ感じたそうだ。
高橋さん:「品物によってですけれど、例えば、上のくまちゃんを売ってくれたおばあちゃんは『私が若い時に自分の子どもに買ったんだけど、遊ばないから、もうずっと家にあって、あなたに売ってあげる』と言ってくれました。」
「ソ連に行けるとしたら何がしたい?」という質問に、高橋さんは「そこにあるものをすべて買い占める」と笑顔で答えた。ソ連崩壊から30年経ち、当時の品を探すのは難しくなる一方だ。なくなっていくのはモノだけではない。人も去って行く。高橋さんは、モスクワ五輪のマスコットの生みの親であるヴィクトル・チジコフさんが最近亡くなったことに触れた。高橋さんによると、モスクワ五輪の可愛らしいマスコットのバッジは、店でも定期的に売れているのだという。
「ホンモノ」のマトリョーシカについて
高橋さんは、ソ連に愛着を抱くきっかけとなったマトリョーシカについて、本当に面白い話をたくさん知っている。そして、ソ連時代のマトリョーシカは「ホンモノ」のマトリョーシカではないと言う。いったいなぜなのか?
高橋さん:「ロシア人がよく知っているマトリョーシカはこれですよね。
僕は、これはマトリョーシカではないと思っています。これはソビエトの時代に国がたくさん作った 『セミョノフスカヤ・マトリョーシカ』 です。マトリョーシカは民芸品で、新しい民芸品を考えていこうという運動が1899年、今から121年前にありました。そのときに作られたマトリョーシカというのはこれじゃないんです。最初のマトリョシュカというのはこちらです。
レプリカですけれど、デザインは同じです。121年前のデザインです。これはセルギエフ・ポサードのおもちゃの博物館にもあるものです。このマトリョーシカの中を見ますと、違うデザインが出てきます。ソビエト時代のマトリョーシカを見ますと、デザインは同じになっています。これは1日に何万点も作って、ノルマがあって世界中に出荷しないといけないので、こういうことになったわけです。
高橋さんは作家による手作りのマトリョーシカを高く評価している。高橋さんはこの7~8年でモスクワに多くの人脈を築き、今では、様々な種類のマトリョーシカを作家本人から直接買いつけている。
高橋さんは、世界のコロナ禍が収束し、再びモスクワに行ける日を楽しみにしている。そうすれば、日本でほとんど知られていないソ連時代の品をまたたくさん持ち帰ることができる。