ドヴラートフは世界でそんなに有名?映画の内容は?
セルゲイ・ドヴラートフは、ロシア語の作家として最も読まれている一人だが、彼の散文がソ連で出版されたことはない。ドヴラートフは出版のために、まずはウィーンに、後にアメリカに移住を余儀なくされた。アメリカではナボコフに次いで、有名な『The New Yorker』誌に作品が掲載された2人目の作家となった。
ドヴラートフを描いた初の映画であるこの作品は2018年、第68回ベルリン映画祭で封切られ、芸術貢献賞で銀熊賞を授賞した。その後、英語での配給権を動画配信サービスNetflixが獲得している。
映画は1971年のレニングラード(編集部注:現在のサンクトペテルブルク)でのドヴラートフの人生の6日間、友人で後にノーベル文学賞を授賞するヨシフ・ブロツキーが国外移住する直前の日々を描く。本作品は事実とドヴラートフの作品への参照、そしてフィクションを巧みに織り交ぜ、全体として当時の気運や雰囲気を驚くほど正確に再現している。
ドヴラートフの著書では、ほぼすべての作品の主人公がドヴラートフ自身である。
守屋愛さんは観客に次のように説明した。「ドヴラートフの作品というのは自分と等身大のドヴラートフという主人公がいつも出てくる作品です。ドヴラートフの作品を評して、ある文学者がいったセリフは実に妙を得ていると思いますが、彼の文学はチャーリー・チャップリンが描いたチャーリーのような作品なのです。すべてチャーリーという同じような人物を描く作品だけれども、それはすべて作られたチャーリーで、それぞれ一つずつ別の作品です。ドヴラートフの作品もドヴラートフを主人公にした作品が殆どなんですけれども、その一つずつが違っているところがポイントです。」
トークショーでは、守屋愛さんと沼野充義さんが3月に行われた本作監督のSkypeインタビューについても語ってくれた。
ゲルマン監督はまた、不思議なことだが、おそらくドヴラートフはこういう映画を撮影するためのきっかけだったのだと語った。実際のところ、監督にとっては70年代のレニングラードの感覚に戻ることで、「両親の時代に心の旅をする」ことの方が重要だった。しかし同時に、ゲルマン監督は、ドヴラートフの娘と仲良くしていて、彼女から父親の映画を撮ってほしいと以前から頼まれていた、ただ残念ながら長い間そうした機会がなかった、とも語った。
多くの人にとってドヴラートフは陽気でくじけない人というイメージだが、実際の作家はどうやらまったく違ったようだ。
ゲルマン監督は言う。「現実のドヴラートフがいて、フィクションのドヴラートフがいる。彼の写真を見てみると、出版されていないものでさえも、彼が笑っている写真はほぼ1枚もないことに気付くでしょう。これは不思議なことです。作家は面白おかしい物語を書いているのに、本人は一切笑わないのです。」
「これは自慢なんですけれど、おそらく日本人で生きている時にドヴラートフに会って話したことがあるのは私だけだと思います。その時に私は彼に会えると喜んで、彼の本を持って行ってサインをもらいました。私は日本から来たこういう者です、と。普通そう言われると作家って喜んでニコニコする、『あ、そうか、日本から来たのか、俺の本を読んでくれて、ありがとう』とか言いそうなものですけれど、まったくそんなことを言わないで、ニコリともしないで、しかめっ面をしていて、ほとんど無言でサインをしてくれたんです。そういう人なんですね。本当に明るく楽しい人ではなかったんです。」
現実のドヴラートフと文学作品のドヴラートフという主人公のこうした乖離は、彼の作品『外国人の女性』からの次のような引用で説明できるのかもしれない。
― どうして世の中には陽気な人よりも、暗い人の方が多いのかしら?
― 暗い人のフリをする方が簡単です。
「これを外国人に説明するのは非常に難しいのです。アングロサクソンの意識では、ドヴラートフは絶対にロシアで政権と闘わなくてはならないのです。バリケードの上に立ち、旗を掲げ、自由を擁護しなくてはならない。しかし、ドヴラートフはまったく反体制派ではなかったというのが真実なのです。彼は、管理不能な才能の発現を容認しないあの体制の下で、自分自身であろうとしていただけなのです。彼は自分の作品が出版されていたならば、どこにも移住しなかったでしょう。彼を枠にはめ、別の人間を仕立てようとしても、そんなことはできるはずがありません。ドヴラートフ自身が『共産主義者の次に私が大嫌いなのは反共産主義者だ』と言っていたことが、よく物語っています。
『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』は全国30の映画館で上映される。皆様も1971年のレニングラードの世界を旅してください。