前宮城県岩沼市長・井口経明さんに聞く、非常時のリーダーのあるべき姿:津波対応の後悔と教訓

東日本大震災時、市の面積の48パーセントが津波被害を受けた宮城県岩沼市。スプートニクは震災時に市長として津波対応の陣頭指揮を取った、井口経明(いぐち・つねあき)さんに話を聞いた。井口さんはスピード感ある復興を重視し、100日間連続で市庁舎に泊まり込んで震災の対応にあたり、どの自治体よりも早く震災復興計画マスタープランを作成した。2014年の政界引退後は、東北福祉大で客員教授を務めるほか、岩沼市の復興を象徴するメモリアル公園「千年希望の丘」協会の会長として、地域のための活動を続けている。
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津波を見てもすぐには信じられなかった

井口さん「震災当日は、午前中に中学校の卒業式に出て、その後県庁に行く予定がありました。県庁の前まで着いたところで、地震が起こりました。それですぐ引き返しました。大変な揺れでしたが、仙台から岩沼まで帰るまでに、屋根瓦が落ちている家はありましたが、家屋が倒壊しているところは見ませんでした。なので、役所に戻るまでは、犠牲者が出なくてすんだんじゃないか、という淡い期待があったんです。」

しかしその期待はすぐに打ち消された。大津波警報が出され、市役所からも津波が見えた。

井口さん「市役所の5階から、海岸の松林の上にどす黒いものが見えて、それが津波だったんです。津波だと言われても、すぐには信じられなかった。ただ、阿武隈川を見たら、水がさかのぼってきてるんです。これが津波か…と認識し、それから私も職員も、それぞれの持ち場について、対応を始めました。」


多すぎた警察官の犠牲

岩沼市では、736棟の建物が全壊した。そのうち津波被害によるものは724棟だった。亡くなった市民は180人。その中でも目立つのが、津波から逃げ遅れたのではなく、そもそも避難しなかった人だ。そしてその人たちを、最後まで避難させようとしていた警察官の避難が間に合わなくなった。

井口さん「14時46分に地震が来て、津波が岩沼に来たのは1時間少し後でした。海岸のすぐそばに特別養護老人ホームがあって、110名の方が入所・通所していましたが、全員が避難でき、『奇跡の脱出』と言われました。幸い、それだけの時間的余裕があったわけです。ところが、住民の中には『親の代から岩沼は津波が来ないと言われているから大丈夫』などと言って、避難しなかった方が結構な数いました。車椅子の人でも避難できているのですから、逃げる気さえあれば逃げられたはずです。岩沼の警察官の犠牲は、津波の大きな被害を受けた石巻や南三陸よりも、圧倒的に多かった。避難誘導しているのに避難してくれない、そのために自分の避難が遅れたという、残念なケースがたくさんありました。」


復興のトップランナー

岩沼市は、スピード感を持って対応したので、震災復興のトップランナーと言われた。「首長は、スピーディーに判断・決断し、的確な指示を出すことが重要」と話す井口さん。結果が出たのは、いくつかの幸運な要素が重なったからだと分析する。

岩沼市は、「必ず来る」と言われていた宮城県沖地震の再来に備えて、震災前年の12月に市庁舎の耐震補強工事をしていた。他の自治体と違い、行政中枢の津波被害がなかったことから、市役所を十二分に活用することができた。

井口さん「市庁舎がそのまま使えるのと、市庁舎自体が被災し、移転先が災害対策本部になるのとでは全然違います。通常、行政の選択としては、直接市民が利用する場所は耐震補強しても、役所の職員が利用するような施設は後回しになります。しかし震災以後は、市庁舎や役場の機能が大切だという認識が広まりました。また、6地区の被災集落の皆さんがリーダーを中心にまとまってくれたこと、付き合いのある自治体からいち早く応援に来てもらったこと、外国からの応援もとても助けになりました。避難所運営については、当時女性や子どもへの配慮が問題になりましたが、岩沼では避難所の担当である市民課職員の半分以上が女性だったこともあって、問題はほとんど起きませんでした。」

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阪神大震災の教訓:あえて仮設住宅の抽選せず

岩沼が注目を集めた理由はスピードだけでなく、住民移転の画期的な手法にある。被災者に仮設住宅に入ってもらう際、集落単位で引っ越してもらったのだ。このアプローチはユニークな成功例として、全国から視察が来た。

井口さん「阪神淡路大震災の時に、せっかく繋いだ命なのに、自殺する人がいたということを聞きました。孤立する自殺者を出したくなくて、避難所でも仮設住宅でも、同じ町内の人に1か所に集まってもらう仕組みにしました。知り合いと励まし合う、気軽に愚痴をこぼしあえることは、精神的な支えになります。『平等』にこだわって、仮設住宅への入居を抽選にしてしまうと、隣に誰がいるかわからなくなります。岩沼では抽選をしなかったため、最初に仮設に入った人と、遅れて入った人では1か月くらい時間のズレがありましたが、特別苦情は出ませんでした。」

その後は、住民や有識者が一緒になってまちづくり検討会を28回開催し、被災した6集落がひとつになる防災集団移転地「玉浦西」を造成することを決定。震災翌年から工事が始まり、2015年夏には、住民によるまち開きが行われた。

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国のコスト意識欠如、立ち入り禁止の避難所?

コスト意識を大事にしたい井口さんにとって、国の対応には疑問に思う点が多かったという。

井口さん「廃棄物の処理費は、国が95パーセント負担するから、残り5パーセントはは自治体で持ってくれ、という話でした。そもそも市の予算は年間100億円少し。もし廃棄物処理に300億かかるとすると、市の持ち出しは15億です。もちろんそんな予算は割けません。国の方から宮城県の廃棄物は、静岡や北九州に持っていくように指示がありました。処理コストより輸送コストが何倍もかかるんです。国にはコスト意識が欠けていると思いました。」

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「被災地を整備するには、被災した方々の土地を国の方で買い上げてもらわないといけません。まず、買うという方針は決まったんですが、実際に現地に行って土地を測ってみなければ買い取れない、と言うのです。でも実際は、津波で流されて隣家との土地の境界もわからないんですよ。私は、そんなことはやめて、不動産の登記簿に基づいて買い取りをしてほしいと訴えましたが、『日本ではそんな例はない』と言うのです。結局、私の主張が通り、買い取ってもらえることになりました。」

市の沿岸約10キロに渡って整備されたメモリアル公園「千年希望の丘」の土台には、津波で流された家の柱などの、震災ガレキが使われている。ここでは岩沼の震災ガレキの9割が活用されている。しかしこれもすんなりとはいかなかった。「津波で流されたものを積み重ねたら有害ガスが発生する」とか「そのうち丘が壊れる」など、根拠のない反対意見が噴出したのである。

井口さん「政府関係者に、ガレキで丘を作ってもいいけれど、その丘は避難所にして、立ち入り禁止にするように言われました。いざというときの避難場所になる、と言われても、そもそも津波で人が住めなくなったから公園を作るわけで、津波が来る時、太平洋の方に逃げる人はいませんよね。しかも普段は立ち入り禁止にするなんて、実に馬鹿げています。ただ、国から復興交付金を受けるにあたって、項目を当てはめる時「避難所」にしておいた方がお金を出しやすい、という理由なんです。官僚の方々は少しでもお金が行き渡るように努力してくれたと思いますが、そんなマンガの様な話は、たびたびありました。」

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立ち直った姿、世界に示したい

震災時の対応にあたった被災地の市長や町長がどんどん交代する中、井口さんは、当時の思いがしっかり受け継がれるようにしていかなければ、と使命感を抱いている。特に避難の拒否で警察官の犠牲を多数出したことから、例え空振りでも躊躇なく避難するべき、と言葉に力を込める。

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井口さん「災害時はためらわずにすぐ避難することです。避難警報を出した時に、空振りだったとしてもです。早朝にサイレンを鳴らして『寝られないから消せ』と言うクレームがあったこともあるのですが、実際の災害は時間を選ばないし、時間帯にかかわらず全員を避難させないといけません。行政の方も、あの教訓を生かして、思い切ってしっかりした避難指示を出すべきです。」

千年希望の丘の園内には、家の基礎や蔵、生活道路など、被災した各地区の震災遺構が残されており、震災教育の場にもなっている。津波被害を軽減する「緑の防波堤」を作るための植樹や、マラソン大会、収穫祭など、ボランティアが気軽に参加できる様々なイベントが定期的に開催されている。

千年希望の丘は東京五輪聖火リレーのコースにもなっている。実は井口さんは、1964年東京五輪の際にも聖火ランナーを務めている。当時18歳で、沿道の大声援を受けながら、岩沼の中心部を駆け抜けた。今回も聖火リレーを走る予定だが、井口さんは「どうなるか見守りたい」と話す。

井口さん「本来は世界の人たちにここへ来てもらい、我々が被災地で頑張ってきたこと、震災から立ち直った姿を見てもらいたいと思っていましたが、現在の状況は厳しいですね。五輪がどのような形になるかわかりませんが、状況を見守って、いずれにしても何らかの形で、おかげさまで復興できた、と世界に伝えられればと思います。」

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