完全秘密の雰囲気
アレクサンドルさんによると、1986年5月初旬、アレクサンドルさんが通っていた大学の学生たちは、事故処理作業に参加するため、現地に派遣されたという。学生たちは、原発から半径30キロの立入禁止区域の近くに避難者のための住宅などを建設した。
「実際のところ、これがどのような結果をもたらすのか、これがどのような事故なのか、誰も知りませんでした。奇妙でわけのわからない噂がたくさんありました。それは、人々が光り出すというものでした。実際のところ、情報は一切ありませんでした。当時、チェルノブイリについて話すことは事実上、禁じられていました。」
またアレクサンドルさんによると、当局からの情報が不足していたため、事故処理作業者たちの間では、事故について、米国による陰謀説や宇宙人が来たなどの馬鹿げたものまで、さまざまな説が広まっていたという。
滑稽で悲しい
またアレクサンドルさんは「私たちが働いていた場所から有刺鉄線で囲まれた30キロの立入禁止区域の境界まで200〜250メートルでした。
その少し先の、この禁止区域内の500〜600メートルのところに村があり、私たちはそこから住民たちを新しい村に移住させました。なお、私たちが住宅を建てていた間ずっと、人々は(有刺鉄線に囲まれた30キロ圏内の)その村に住んでいました。私たちの間では、放射線は有刺鉄線を超えて飛ぶことはないというジョークがよく語られていました。そうでもしなければ、この2つの村が隣接していることを説明できなかったからです」と語った。