ロシア人捕虜、ロシア帝国海軍、戦闘の様子・・・歴史研究家らが日露戦争時代の写真を復元

1904年から1905年にかけての日露戦争の様子を捉えた写真のネガは、偶然、発見されるまで、100年以上にわたって、屋根裏に置かれたままになっていた。そして、発見された写真はイワノボ市歴史郷土博物館のコレクションに加えられた。現在、コレクションの一部がモスクワの外国語文学図書館で展示されている。
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このコレクションについて、イワノボ市歴史郷土博物館のドミトリー・オルロフ学術副部長は「スプートニク」からのインタビューに答え、次のように述べている。

「イワノボ州ゴリノ村のある住人から、ガラス乾板が入った箱が博物館に寄贈されました。義理の母親宅の屋根裏で見つけたということでした。ネガは、彼女の父親であるニコライ・グリボフが日露戦争から持ち帰ったものだそうです。ニコライ・グリボフは極東の造船所で働き、ポルト・アルトゥール(旅順)の戦いに参加し、浜寺俘虜収容所(大阪府泉大津市)に収容されました。誰がこの写真を撮影したのかは分かっていません。また箱が100年以上も屋根裏に置かれたままになっていたため、ネガをしかるべき状態に戻すのは困難でした。ネガにはシミがたくさんあり、ぼやけた部分もありました。そのそれぞれのネガを2週間かけて復元したのが、地元の写真家、アンドレイ・エゴロフです。そのおかげで、ポルト・アルトゥールの要塞や太平洋に配置された帝国海軍の軍艦建設の様子、日露戦争の戦闘、浜寺俘虜収容所でのロシア人捕虜の生活がかなりはっきりと分かるようになりました」。

歴史研究家らが日露戦争時代の写真
最初のロシア人軍事捕虜が日本に送られてきたのは1904年3月初旬である。それは軍艦「ワリャーグ」号の負傷兵であった。後になって、ポルト・アルトゥールの防衛者やその他の戦闘に参加した兵士らも捕虜となった。日露戦争の終戦時には、日本には7万人を超えるロシア人が29の収容所に収容されていた。浜寺俘虜収容所にはおよそ3万人が収容されていた。浜寺の墓地には、捕虜として亡くなった89人の陸軍・海軍兵士らが眠るロシア兵墓地がある。1997年、この場所にはウラジオストク市民と太平洋艦隊の兵士らによって記念碑が設置された。
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写真を見ると、日本におけるロシア人捕虜の扱いはそれほど酷いものではなかったことがわかるとドミトリー・オルロフ氏は話を続ける。

「日本政府は、役職を基にした規則を厳しく遵守しており、ロシア軍の中でも身分の低い兵士は将校とは別に収容していました。一般兵士が収容されていた最大の収容所が浜寺俘虜収容所でした。捕虜たちは、収容所の中を自由に移動することができ、またときに市街に出ることもできました。大阪でサーカスのショーに出かけるロシア人が映った写真がそのことを物語っています。またロシア人は正教の儀式を執り行うこともできました。ネガの一つに、軍事収容所に造られた屋外の祭壇が映っています。1899年に採択されたハーグ条約に従い、捕虜らは家族に手紙を送ったり、健康管理をしたり、必要な食糧などを調達したりすることが許されていました。当時、日本は世界に文明国家であることを証明しようとしていたことから、軍事捕虜に対する人道的な扱いに関する条項を遵守しようと努めていたのです。もっとも、ロシア人捕虜の書簡や回想を見る限り、することがないということが何より辛かったようです。1905年11月、終戦に伴い、捕虜交換の議定書に署名が行われ、ロシア人捕虜の一部は帰国しました」。

негативы времен русско-японско войны
ドミトリー・オルロフ氏は、この写真のコレクションは芸術的、そして歴史的に大きな価値を持っていると指摘する。歴史的価値があるのは、オリジナルの書類や写真はときにまだ知られていない新たな過去の事実を知ることができる証拠だからである。一方、芸術的価値があるのは、それが20世紀初頭の一連の出来事を視覚的に伝える「生きた絵」だからである。しかし、これほど貴重なものが、どのようにして、ごく普通の労働者で兵士だったニコライ・グリボフの手に渡ったのかは謎のままである。この写真コレクションを大阪で展示したいという要望があるが、新型コロナウイルスによる制限措置のため、残念ながら、写真の輸送はより適した時期まで待たなければならない状況となっている。
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