「イワノボ州ゴリノ村のある住人から、ガラス乾板が入った箱が博物館に寄贈されました。義理の母親宅の屋根裏で見つけたということでした。ネガは、彼女の父親であるニコライ・グリボフが日露戦争から持ち帰ったものだそうです。ニコライ・グリボフは極東の造船所で働き、ポルト・アルトゥール(旅順)の戦いに参加し、浜寺俘虜収容所(大阪府泉大津市)に収容されました。誰がこの写真を撮影したのかは分かっていません。また箱が100年以上も屋根裏に置かれたままになっていたため、ネガをしかるべき状態に戻すのは困難でした。ネガにはシミがたくさんあり、ぼやけた部分もありました。そのそれぞれのネガを2週間かけて復元したのが、地元の写真家、アンドレイ・エゴロフです。そのおかげで、ポルト・アルトゥールの要塞や太平洋に配置された帝国海軍の軍艦建設の様子、日露戦争の戦闘、浜寺俘虜収容所でのロシア人捕虜の生活がかなりはっきりと分かるようになりました」。
「日本政府は、役職を基にした規則を厳しく遵守しており、ロシア軍の中でも身分の低い兵士は将校とは別に収容していました。一般兵士が収容されていた最大の収容所が浜寺俘虜収容所でした。捕虜たちは、収容所の中を自由に移動することができ、またときに市街に出ることもできました。大阪でサーカスのショーに出かけるロシア人が映った写真がそのことを物語っています。またロシア人は正教の儀式を執り行うこともできました。ネガの一つに、軍事収容所に造られた屋外の祭壇が映っています。1899年に採択されたハーグ条約に従い、捕虜らは家族に手紙を送ったり、健康管理をしたり、必要な食糧などを調達したりすることが許されていました。当時、日本は世界に文明国家であることを証明しようとしていたことから、軍事捕虜に対する人道的な扱いに関する条項を遵守しようと努めていたのです。もっとも、ロシア人捕虜の書簡や回想を見る限り、することがないということが何より辛かったようです。1905年11月、終戦に伴い、捕虜交換の議定書に署名が行われ、ロシア人捕虜の一部は帰国しました」。