1977年、成蹊大学法学部政治学科を卒業。1978年には渡米し、南カリフォルニア大学付属高等国家政策学校に1年間留学。1982年、父、安倍晋太郎が外務大臣に就任すると、28歳でその秘書官を務める。1980年代末からは自由民主党本部に勤務。
安倍晋三氏は2000年、内閣官房副長官として政府内でのキャリアを開始。2003年、閣僚経験もないまま自由民主党幹事長に抜擢され、2004年まで務める。2005年10月、内閣官房長官として入閣を果たす。
2006年9月26日、52歳で首相に就任。日本戦後最年少で、初めての戦後生まれの首相が誕生した。ところが1年後の2007年には、慢性の潰瘍性大腸炎の悪化を理由に辞任。2012年12月には再び首相に返り咲き、2020年まで在任。日本の首脳として7年8カ月という最長の就任記録を樹立した。安倍氏は2020年の辞職の際も再び健康問題を理由にしている。
安倍内閣の政策ではデフレ対策の経済政策「アベノミクス」が有名。また憲法改正、中でも「平和主義」9条の書き換えと軍事費の大幅増額を積極的に主張した。
安倍氏は自分の就任期に何としても日露平和条約の締結を果たしたいと公言し、日本の首脳としてロシアのプーチン大統領と何度も会談を実施してきた。第1期目 (2006年~2007年) には3回、2013年4月28日には3日間の日程でロシア訪問。日本の首相のロシア公式訪問は実に10年ぶりで大きな注目を浴びた。2014年2月7日、第22回ソチ冬季オリンピックの開会式にも西側諸国の首脳らが出席を見合わせる中、安倍氏は出席。2015年から2019年にかけても頻繁に会談を行っており、中でも2015年、郷里の山口県への招待は異例で大きな話題を呼んだ。
両首脳の尽力で、南クリル諸島 (日本の表現で「北方領土」) におけるエネルギー協力と共同経済活動に関する協定が締結。安倍首相は南クリル諸島の領土問題を解決し、平和条約締結を実現するためにあらゆる手段を講じようと努力した。安倍首相のこの試みは失敗したため、あまりにもソフトな対露政策をとったとして、しばしば槍玉にあげられた。
2022年7月8日、安倍氏は奈良県での街頭演説の最中に銃撃され、搬送先の病院で死去した。享年67歳。