1年半ぶりの取材
会場の最寄り駅となるモスクワ中央環状線のジル駅を降りると、かつてソビエト時代に自動車産業の中心地だった名残か、今でも周囲には工場の煙突が見える。筆者にとっては約1年半ぶりの本格的取材であったため、楽しみと緊張が相まって胸の鼓動が高まる。
駅からものの3分足らずで、2015年に建てられたガラス張りの「CSKA(チェスカ)アリーナ」が見えてくる。CSKAといえば、サッカー元日本代表の本田圭佑選手が所属していたクラブチーム「CSKAモスクワ」が日本では有名だが、今回の会場はアイスリンクとなっており、母体が同じアイスホッケーの強豪「CSKAモスクワ」の本拠地となっているという。
会場の警備は万全だ。出入り口付近には警察の護送車らしき車両が停まっていたほか、会場に入る者は全員、金属探知機を通って手荷物の中身を改めなくてはならない。パソコンやカメラを携えていた筆者も例外ではなかった。
過去にテロが相次いだモスクワでは、公共交通機関はもちろん、大規模イベント会場や一部のショッピングセンターでも手荷物検査が行われるのが一般的となっている。むしろ、それくらいしてくれた方が安心できる。
筆者はフィギュアスケートの会場に足を運ぶのは初めてだったため、標準がどれほどか分からないが、3000人収容の今回の会場は小型らしい。
取材を共にした現地他社のスポーツ記者らが話すには、国際スケート連盟(ISU)がロシア選手を国際大会から排除するなか、今回の大会は選手のモチベーション、ファンの人気を維持する目的を含めて企画された。例年の国際大会ほどの盛り上がりはないというが、それでも人気の女子シングルには大勢のフィギュアファンが駆けつけた。
露選手の国際大会排除のなか、ファンは
来場したファンに注目選手を聞くと、過去にグランプリファイナル(2014)や世界選手権(2015)で優勝経験のあるトゥクタミシェワ選手や、期待の新星ソフィア・アカチエワ選手(15)らの名前があがった。
娘と会場を訪れたオリガさんは、アンナ・シェルバコワ選手(18)ら数々の五輪メダリストを育てた名指導者エテリ・トゥトベリーゼ氏率いるチームのファンだといい、今回はアカチエワ選手を応援。ジャンプを含む様々な動きが研ぎ澄まされていて「目が離せない」と話した。
また、娘のイリーナさんは、トゥクタミシェワ選手の大ファンだという。「ただでさえ競争が激しいロシアフィギュア界で、若くして引退する選手が多いなか、トゥクタミシェワ選手は現役で活躍している」と称賛。「曲目もよく美しく、最後までしっかり滑りきるトゥクタミシェワ選手の演技が喜ばせてくれます」と目を輝かせた。
2人は国際大会からロシア選手が排除されている点について、「残念」としながらも、国内大会が充実したことでファンにとっては肯定的な面もあると語る。
「もちろん、ロシア選手が世界の強豪と競えないのは残念です。でも唯一プラスなのは、これまで見られなかったロシアの地方の選手に会えることです。私の故郷に近いトゥーラの選手も出場しています」
実際にこの日の出場者の出身地を見てみると、モスクワやサンクトペテルブルクなどの大都市以外に、南部クラスノダール地方やウラル地方のスヴェルドロフスク州、西シベリアのハンティ・マンシ自治管区・ユグラなどロシア全国の地名が確認できた。
一方、地方出身だというポリーナさんとアンナさんは「(ファンの)近くで演技してくれるのはいいことだけど、それで喜ぶのはエゴイズムかも。やはり、より高みを目指してほしいので、国際大会にも出てほしい」と語る。
「国際大会に私たちの選手が出ているのを見ると嬉しいし、選手本人にとっても国際大会で別の国の選手と競争したほうがいいと思う」
2人の注目選手は総合2位となったソフィア・ムラヴィヨワ選手(16)だといい、「プログラムもいいし、滑走も柔らかく、猫のように可愛い」と絶賛。滑走後には観客席の裏手にムラヴィヨワ選手本人が現れ、2人もサインをもらっていた。
また、優勝したトゥクタミシェワ選手の演技は「息をつく間もないほど、手が震えるほど心配だった」としたものの、「彼女が勝ったときは涙が出た」と感激した様子だった。
来場者は日本のフィギュア選手もよく知っていた。好きな選手を尋ねると、ISUグランプリ英国大会で優勝した三原舞依選手(23)のほか、北京五輪銅メダリストの坂本花織選手(22)の名があがった。
また、けがからの復帰を目指す紀平梨花選手(20)については、「ジャンプがすごい。鋼の精神を持っているかのようで、見ていて不安になることがない。『彼女は絶対転ばない』ってね」と絶賛。「彼女の帰りを待っている」といち早い回復を願った。
取材の舞台裏
会場には前出のトゥトベリーゼ氏や、かつて「氷の皇帝」と呼ばれたエフゲニー・プルシェンコ氏らがコーチとして来場。また、ロシアフィギュア界の大御所、タチアナ・タラソワ氏や現在はスポーツジャーナリストとしても活躍する五輪金メダリストのアリーナ・ザギトワさん(20)とみられる面々の姿もあった。
取材中はインタビューや写真撮影、記事の執筆などで慌ただしく、ゆっくりとスター選手らの演技を楽しむ余裕はなかった。この点は、筆者が日本で新聞記者として勤務していた頃に、夏の甲子園や高校バレーの全国大会を取材したときと同じだった。
また、日本でのスポーツ大会と同様、演技後の各選手らに舞台袖で囲み取材する機会が記者団に与えられた。露フィギュア界の期待の新星、ムラヴィヨワ選手やアカチエワ選手らが代わる代わる姿を現す。
画面越しでは大人びて見える彼女たちも、生で対面すると年相応のあどけなさが垣間見える。大勢の記者を前に恥ずかしそうにその日の演技の出来栄えを語り、照れ笑いで切り抜ける場面もあった。
一方、今大会で最年長のベテラン、トゥクタミシェワ選手は経験値の違いからか、質問に的確にはっきりと答えていた。どこの馬の骨とも分からない筆者の質問にも耳を傾け、日本選手についてや日本のファンへの思いも語ってくれた。
取材の合間には、食事を摂る時間もあった。ファーストフードが中心の軽食屋で、一番人気だというホットドッグをいただいた。パンにソーセージとピクルスを挟み、ピリ辛マスタードソースとケチャップをかけただけの素朴な味は、どこか小学校の給食を彷彿とさせる。でも、アイスホッケーの観戦にはもってこいかもしれない。
初のロシアフィギュアの取材を終え、興奮冷めやらぬままこの文章を記す。今回は選手やファンの生の声に触れることができ、新たな学びも多かった。日本選手とロシア選手が同じ氷の上でまた競い合う日が早く来ることを願ってやまない。その際は、今度は観客としてゆっくりとスター選手らの演技を味わいたいと思う。