【解説】第3帝国のヒトラー内閣誕生から90年 ファシズムはなぜ独に根付いたのか

あれから何十年がたってもこの恐ろしい光景が世界中の人の記憶から去ることはない。黒い服に身を包んだ人間たちが終わりのなく続き、燃え盛る火を掲げ、ベルリンの中心を練り歩き、アドルフ・ヒトラーを熱烈に讃える、あの松明行列。1930年1月30日は世界史の血塗られた時代の幕開けの日だった。時代はヒトラーの第3帝国(ナチス国家)の首相就任に始まり、1945年の独国会議事堂の占領、その直前に起きたヒトラーの自殺、そして広島、長崎に壊滅的な攻撃を受けた後の日本の全面降伏と、大陸部でのソ連軍に追われた日本関東軍の敗退によって幕を閉じた。スプートニクはドイツ史の転換点となったこの日、1月30日に際してドイツ人政治学者で史学家のシュテファン・ボリンガー氏に取材した。
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ヒトラーとその側近が政権についていた期間はわずか12年。だがその間にローマ(伊)、東京(日本)、ブラチスラバ(スロバキア)、ザグレブ(クロアチア)、ヘルシンキ(フィンランド)、ブダペスト(ハンガリー)、ヴィシー(当時の仏の首都)、オスロ(ノルウェー)の同盟国と組んで起こした文明の致命的崩壊の全責任はヒトラーらにある。その犠牲者の数は5500万人とも6000万人に上るともいわれている。
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小規模で少数派だった 国民社会主義ドイツ労働者党が1930年代初頭に急激に大きな発言権を得た背景にはいくつかの理由があった。ボリンガー教授は、同党にはその「民族革命」を熱狂的に支持する人がいた反面、運動とイデオロギーを「金融資本の最も反動的、排外的、帝国主義的要素のテロ独裁」と捉えていた層もいたと指摘している。
「ファシスト運動は危機に陥った社会の中で、運動が発展していくための根拠と条件を見つけます。ファシストらは恐怖を煽り、操作、デマゴギーを使い、社会的な提案を行いながら大衆の信頼を獲得して、それを信奉者、協力者にする方法を知っているのです」

ドイツ型ファシズムの特徴

ボリンガー教授は、世界的な経済危機による大量の雇用破壊と、低所得の職人、商人、サービス業、知識人といった中産階級の衰退が独ファシズムを支える大衆の基盤となったと語る。ファシストらはこうした層を空約束で誘惑し、のちに自分の仲間に組み入れることに成功した。
「ドイツのファシズムは、『劣等人種』(Untermenschen、ウンターメンシェン、存在自体が宇宙の過ちと扱われた)の烙印を押された人間は完全に抹殺すべしという独特の特徴を持っていました。人種主義や不要な少数民族との対決がファシスト運動を動員していく重要な要素だったのです。それがその後のファシスト国家を大きく推し進めました」
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ヒトラーの政治的信奉者とスポンサーたち

ボリンガー教授によれば、ナチスは1920年代にはすでに崇拝者とスポンサーを獲得していた。銀行家のフォン・シュレーダー、後にナチス協力を痛烈に後悔した大実業家のティッセン、米国人企業家でフォード・モーターを創設したヘンリー・フォードがそうだった。ヒトラーが力をつけ、小規模ながらすでに戦闘的な党が次第に強化するチャンスを与えたのは、まさにこうしたスポンサーらだった。
「1929年の危機勃発でドイツ人が何を希求しなければならないかが明らかになったのです。それは、強い男が政権を取れば(当時は女性のことを考える人は皆無だった)、国に平安を取り戻すことができるということでした」
当時、人々は雇用を心配していただけではなく、インフレの再来やデモ、政治的な動機による暴動、街頭での発砲などはもう繰り返したくないという思いを強くもっていた。
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「 ドイツ経済界が自問していた、より決定的な問題とは、どうすれば、あの1918年に経験した飢えと失業による革命の再来を防ぐことができるかということでした」
1931年7月にはすでに、フランクフルト・アム・マインの経済団体「経済政策学会」(Wirtschaftspolitische Vereinigung)から、ヒトラーへの権力移譲を求める嘆願書がヒンデンブルク帝国大統領に出されていた。それがより決定的な形をとったのは、1932年11月19日、主要な財界代表がヒンデンブルク大統領に提出した、国民社会主義ドイツ労働者党への権力の法的移譲の嘆願書だった。
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