「イラクの自由作戦」の代価 20年前、米国がいかにして中東をカオスに陥れたか

2003年2月5日という日付は、米国がどんな状況でも覇権欲を捨てないことを証明した日として残るだろう。この日、パウエル米国務長官は国連安保理で、イラクが化学・生物兵器を保有しているとする虚偽の証言を行った。この嘘の結果、米国はイラクで開戦し、イラク市民にはまぎれもない大災難となった。
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国家規模でついた大嘘

パウエル長官は国連安保理で、イラクの指導者サダム・フセイン氏の生物兵器製造技術に関する情報を得たと述べ、白い粉末の入った小瓶を見せた。これを見た多くの人が、粉はイラクが製造する大量破壊兵器のサンプルだと考えた。後日、これはCIAの誤報であったことが判明し、イラクでは生物兵器は発見されず、パウエル長官自身も「みんなを納得させるために偽の小瓶を見せた」と釈明した。
米国がついたこの嘘はイラクに大損害を与え(イラクは今もなお、その付けを支払っている)、米国のイラク軍事侵攻と国家としてのイラクの根本的破壊の出発点となったのである。
米国はパウエル長官が見せた小瓶の粉が偽物だったことについて、謝罪も懺悔もしなかった。それどころか、米国の中東破壊計画はその後も続けられた。それが米国がシリア、イエメン、リビアで起こした戦争である。

米国のイラクでの軍事作戦

米国が軍事行為開始の公式的名目として挙げたのは、大量破壊兵器の捜索と破壊だった。また米国が、サダム・フセイン政権は国際テロ組織、特にアルカイダと関連していると決めつけていたことも、侵攻の口実に使われた。
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瓦礫が積まれたイラク空軍司令部の中央に立つイラクのサダム・フセインの銅像(2003年4月)

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夜間にミサイル攻撃を受けたティクリート博物館を眺めるイラクのバアス党幹部ら(2003年3月)

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バグダッドにあるサダム・フセイン宮殿の正面扉から大統領の装飾を剥がす米軍兵士(2003年4月)

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空爆で被害を受けたバグダッドの産科診療所(2003年4月)

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バグダッド国際空港近くで、奪取した大統領官邸を確認する歩兵第3師団の米軍兵士たち(2003年4月)

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バグダードの平和宮殿の屋根に飾られたサダム・フセイン大統領の胸像(2003年3月)

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バグダッドの大統領官邸を捜索する米軍歩兵第7連隊の隊員(2003年4月)

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米軍に破壊されたサダム・フセインの故郷・アル=アウジャ村の宮殿(2003年4月)

イラク軍に対する軍事作戦は「イラクの自由作戦」のコードネームで2003年3月20日に開始。4月9日に米軍が首都バグダッドを占領し、フセイン政権の崩壊を宣言して終了した。その後、米国の管理下で発足したイラク暫定連合政権が国を統べることになる。
米国は爆撃でほぼすべてのインフラを破壊。水も食料も電気も通信手段もなかった。米国が掲げた民主主義国家は建設されず、その代わりにイラク社会は混乱し、国家性が失われ、イスラム武装集団が横行するようになった。武装集団は国を牛耳り、イラクを略奪、虐殺、大量殺戮、民族浄化が行われるテロ国家に変えてしまった。
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バグダッドにあるサダム・フセインのラドワニヤ旧大統領宮殿(2004年3月)

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焼け落ちたバグダッドのムサンナ図書館の階段を上る職員(2004年3月)

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夜間にミサイルを受けた情報省庁舎の屋上を歩く同省の職員(2003年3月)

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バグダッドのムスタンシリヤ大学で、残った機材で実験をする学生(2004年8月)

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バスラ近郊を漂流するサダム・フセインのプライベートヨット「アル・マンスール」(2003年4月)

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バグダッドにある国内最大の考古学博物館で、瓦礫の中に横たわる像の一部(2003年4月)

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バグダッドの路上に置かれた、ミサイルによって焼失した車(2003年3月)

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バグダッドにあるプレスセンター屋上で、ミサイルで破壊されたテント村を撮影するギリシャ人記者(2003年3月)

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大爆発のあったバグダッド東部の国連現地事務所が入った「カナルホテル」(2003年8月)

米国のこの作戦は国連の承認が得られないまま開始され、国際社会の不興を買った。中でも、CBSテレビがバグダッド近郊のアブグレイブ刑務所でのイラク人囚人への拷問を撮影した写真を放映すると、米国内でこれは大きなスキャンダルに発展した。
5月1日、ジョージ・ブッシュ・ジュニア米大統領は戦闘行為の終了を宣言した。
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