【解説】イラクのアブグレイブ刑務所 米国占領軍による恐怖とおぞましい拷問の実態

アブグレイブは、イラクの首都バグダッドから西に32キロ離れた同名の都市にある刑務所をさす。欧米メディアはここを、サダム・フセイン政権時代、反体制の政治犯に対する集団拷問や処刑が行われた場所で、特に守りの堅い刑務所だったと呼んでいる。刑務所は2003年、米国とその同盟国がフセイン政権打倒のイラク侵攻を行った後、米軍が手に入れた。刑務所の壁の内側で一体何が起きていたのか。スプートニクが検証を試みた。
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米国主導の連合軍の侵略時代

米軍の駐留期間中、アブグレイブは囚人の収容場所となった。被収容者は主に地元住民で、主観的な理由や疑惑をかけられて拘留された市民は広範な範囲に及んだ。その拘束の在り方はジュネーブ諸条約(1949)で定められた「拘禁と拘束」の原則に反していた。
この刑務所は、2006年8月まで連合軍とイラク政府が共同で使用していた。イラク当局の完全な管理下にあった棟には有罪判決の受刑者が収容され、その他の部分は米軍の管理下に入り、前方作戦基地および矯正施設として使用されていた。

アブグレイブ刑務所内での拷問

2003年の春から夏にかけて米国とともにイラク入りした人権擁護団体が、占領軍がイラクの軍人捕虜や被拘禁者に対して武力を行使している実態に注意を喚起し始めた。
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2003年11月、米国はイラク暫定政権内の役人のアブデル・トゥルキ氏を人権監視官として任命し、内部調査を開始した。トゥルキ氏はイラクを事実上管理する連合国暫定当局の当時のポール・ブレマー代表に、アブグレイブをはじめとするイラク国内の複数の刑務所で、被拘禁者に対する拷問や残酷な扱いが数多く行われている事実を報告。だが、トゥルキ氏は当局はこれに「何の反応も示さなかった」と述懐している。
アブグレイブの実態は外部に漏れ、しかも驚くほど急速に広まり、ついに2004年春には、首都バグダッドで大規模な民衆蜂起の一歩手前まで事は達した。
噂が漏洩したきっかけとなったのは、アブグレイブに収監されている、ある女性が書いた手紙だった。手紙には、収監されている女性たちが米国人、時には刑務官からの絶え間ない強姦に苦しんでいること、そして被害を受けた女性の多くがそれによって妊娠している実態がつづられていた。
だが、囚人虐待の調査が始まったのは手紙ではなく、2003年12月、米陸軍のジョセフ・ダービー兵長が同僚のチャールズ・グライナーから私用に借りたCDがきっかけだった。CDには、囚人に対する拷問や虐待の陰惨な証拠が保存されていた。
ダービー兵長の内部告発により、2004年1月13日、米陸軍は17人の米軍人の虐待に関する内部調査を開始する。
イラク駐留米連合軍リカルド・サンチェス司令官は、アブグレイブでの拷問に関する調査の指揮官として、アントニオ・タグーバ少将を任命した。
3月20日、米連合軍の公式報道官は予備調査の結果、6人の兵士が刑事告発されたと発表。4月9日、この件に関する審理が開始される。
4月、CBSテレビはタグーバ調査指揮官の報告書のコピーを写真諸共入手した。米当局は、報道によってこの情報が公表されるのを遅らせようとしたが、情報が調査報道記者として著名なシーモア・ハーシュ氏の知るところとなり、米誌『ザ・ニューヨーカー』が報告書を掲載する準備をしていることがわかると一転し、先んじて情報公開をしようと積極的な姿勢を見せた。
2004年4月28日、CBSテレビはタグーバ調査報告書を放映。放送には囚人に行われた拷問の中でも最も悪質度の低い写真が選ばれたが、それでも放送後、報告書は瞬く間に世界中のメディアに掲載された。CBSの報道はタグーバ報告書に言及しながらも、トーンは極度に抑えられており、刑務所で行われていたことは、米軍に何らかの方法で潜り込んだサディストや虐待者の悪ふざけであっり、虐待は個々のケースであって、組織的なものではないという論調だった。
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米兵らがアブグレイブ刑務所を取材するジャーナリストらに施設の一部を公開している

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アブグレイブ刑務所の監房のドア、アラブ語で「神よ、助けたまえ」と書かれている

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アブグレイブ刑務所では被拘禁者に対する拷問が行われていた

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アブグレイブ刑務所の被拘禁者の親族

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アブグレイブ刑務所の被拘禁者に米兵が犬をけしかけている(2003年)

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アブグレイブ刑務所で行われた被拘禁者への拷問、イラク、バクダッド

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アブグレイブ刑務所の被拘禁者と米軍人、2003年末、バクダッド

そして、この責任は、ジュネーブ諸条約の捕虜や被拘禁者の扱いに関する条項を看守らに伝達しなかった刑務所の指導部とジャニス・カルピンスキ准将にあるとされた。
ジャニス・カルピンスキ准将への尋問から、アブグレイブには別に軍情報局が管轄するブロック1Aがあり、重要度の高い被収容者への尋問が行われていたことが明らかになった。1AはCIAや国防総省の職員が定期的に訪問していたにもかかわらず、訪問の事実についてはどこにも記録されていなかった。
カルピンスキ准将は、拷問の背後にいるのは情報局の人間だが、自分と部下がその責任を取らされたと語った。
これらの疑問にはシーモア・ハーシュ氏が執筆し、『ニューヨーカー』誌が掲載した記事が究極の回答を出している。ハーシュ氏と言えば、ベトナム戦争の米軍による虐殺をリークし、ピューリッツァー賞を受賞した人物としてよく知られている。ハーシュ氏は情報筋から、アブグレイブで起きたことは、職権を乱用した看守の悪ふざけではなく、コードネーム「パティーナ」と命名された米国防総省の特別機密プログラムであること、アルカイダのテロリストの追跡と破壊を目的として、すでにアフガニスタンとグアンタナモ湾で用いられていること、またプログラムの指揮をとるのはラムズフェルド国防長官であり、ジョージ・W・ブッシュ米大統領はその情報を常に把握していたことをすっぱ抜いた。
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組織的な拷問は2003年8月、悪名高いグアンタナモ収容所の所長だったジェフリー・ミラー少将がバグダッド入りした瞬間から始まった。睡眠を禁じて行われる尋問、寒冷拷問、不安定な姿勢で固定される拷問が常態化していたことが明らかになっている。ミラー少将はまた米軍司令部を説得し、すべての刑務所を米陸軍情報部の管轄下に入れた。この結果、アブグレイブで使用されたプログラムはミラー少将の進言と同様、グアンタナモよりもさらに残酷な形態をとっていた。
2004年5月初旬、米軍指導部は、拷問の一部の形態がジュネーブ諸条約の第3条の拷問方法の一部が捕虜の扱いに関する条項に矛盾していることを認め、公式に謝罪する用意を示した。
アブグレイブ刑務所の虐待事件では12人の米軍兵士が有罪判決を受け、様々な禁固刑に処せられた。2006年3月9日、米軍司令部はアグレイブ刑務所の閉鎖を決定した。
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