「私は岡山県の貧しい農家の出身で、本など一冊もないような家でした。そこで、唯一の活字だった新聞だけは隅から隅まで読んでいました。高校では恵まれた環境の同級生がたくさんいて、彼らの家には世界文学全集がずらっと並んでいたりするわけで、コンプレックスにも悩まされました。その後、受験勉強のプレッシャーでノイローゼになったこともありました。その後、一年遅れで何とか大学に進学しましたが、当時はアルバイトに勤しんでいたので、ロシア語は全く上達しませんでした。学費が払えなくて3年間休学したくらいです。同級生との経済的な格差を目の当たりにしたこともあり、社会的疑問を抱き、社会主義・共産主義に対して、なんとなく憧れのような気持ちを抱いていました。そのことも、ロシア語を選んだ理由のひとつでした」
「ソ連時代のビジネスはすべて顧客先が国営で、国が相手なので、先に納品して後で代金を受け取るシステムでした。しかし、時々は取引先からLC(銀行の信用保証状)が届き、貨物を船積み後、日本の銀行でLCを買い取ってもらい、決済するわけです。しかし91年8月のクーデタ未遂(ソ連保守派によりゴルバチョフ大統領が軟禁状態に置かれた)が発生後直ちに、受け取っていた総額5千万円のLCは完全に紙切れになり、日本の銀行は買い取ってくれなくなりました。直接送金してもらおうにも、ソ連政府は外貨のオペレーションを長期間止めてしまいました。先方にいくらお金があっても、送金する手段がないわけです。また、例えばある大型客船の全面改装修理の案件で、モスクワの海運省本庁で海運次官と会い、契約書に双方サインして、契約締結の祝賀パーティーまでしました。そして、代金30億円のうち10億円を前払いで払う契約で、シンガポールに修理する客船が入港し送金を待っていました。しかし、3か月経っても入金がなく、もうそれ以上船を置いておけなくなって、プロジェクト自体を断念しました。今では本当に考えられないことです」
「ロシアは、人の素朴さや人間味が魅力的だし、文化レベルの高い国です。初めてソ連を訪れたのはブレジネフ時代でした。レストランに席があっても入れてくれないとか、身につけているものを何でもいいから売ってくれと絡まれたりして、思っていた国とは相当違いました。こちらはソ連に憧れていたのに(笑)でもある時、日本人の観光客を案内していると、袋を腕にしたロシア人の中年女性が近づいてきたんです。彼女は袋を持っていたので、きっと何か売りにでも来たのかな?と思って少し警戒しました。ところが彼女は私に、『日本がだーい好き、日本人をとても尊敬しています』と2回言って、スタスタ立ち去ってしまいました。それを言うためだけに声をかけてくれたのかと思うと、私は自分が一瞬女性を蔑んだことが恥ずかしくなりました。そんなことが本当に何回もありました。その時、つくづく日本とロシアは仲良くしないといけないな、と思いましたよ」