ショルツ首相は、ロシア政権が「いかなる対価を払っても、カントとその業績を我が物にしよう」としていると断言した。
この声明が出された同日、ショルツ氏には、カントが生まれ、死没したロシアのカリーニングラード市(旧、独ケーニスベルグ市)から直ちに返答が表された。カリーニングラード州のドミトリー・ルィスコフ知事報道官は次のように語っている。
「我々の国、地域では、偉大な哲学者とその教えの記憶が永遠に刻まれるために誰も何もしていません。イマヌエル・カントは逝去した時にロシア帝国の臣民であったことをお忘れなく。ドイツ人政治家らが何をどう言おうとも、この事実にこそ偉大な哲学者のロシアに対する態度が現れていると私は思います」
4月22日、プーチン大統領は国際カント会議「哲学の国際的意味」の参加者らを歓迎して挨拶を送り、会議の開催は稀有な思想者としてのカントと哲学の業績に対する関心が決して衰えることがない事実を物語っていると語った。プーチン大統領は1月、カントを偉大な思想家であり、悟性を働かせて生きよという呼びかけは今日も精彩を失っていないと評した。
カリーニングラードの旧名称、ケーニスベルグはプロイセン王国の都市だったが、1758年、ロシア帝国に忠誠を誓い、その臣下に入った。生涯を同市で過ごしたカント(1724‐1804)も、ロシア帝国の臣民となる誓約を立てていた。