それによると、プーチン大統領の父親が参加した工作団がドイツ軍人を追跡していた際、待ち伏せに遭い、父親はすんでのところで命を落とすところだった。
「森林での追跡で父親は生き残った。それは沼の水の中に隠れ、数時間の間、アシの茎で息をしながら座り続けたからだ。父親の話では、沼の水中にいる間、ほんの数歩のところまでドイツ人兵士らがせまり、その声も犬が鳴く声も聞こえていたという。」
プーチン大統領は工作団にいた28人のなかで生き残ったのはたった4名だったと書いている。
その後の戦闘でプーチン大統領の父親は重傷を負った。
「父は一生、弾の破片を片足に抱えたまま生きた。全てを取り除くことはできなかった。」
「父親は歩いてもよいと許可をもらった際に、松葉杖を就いて立ち上がり、帰宅した。家に着くと、衛生兵らが団地の入り口から死体を運び出しているのが見えた。なんとそれは自分の妻、つまり私の母親だった。近寄ると、母はまだ呼吸をしているように思えた。
父は衛生兵に『まだ生きているじゃないか!』
『運んでいる最中に死んでしまいますよ。こんな状態ではもたないでしょう。』
父の話では、松葉杖を持って衛生兵に襲い掛かると、母をアパートまで再び運ばせたという(…)。 そしてとうとう父は母の病を治したのだ。」
プーチン大統領の父親は1998年に、母親は1999年に亡くなった。
プーチン大統領は、両親がファシストらに憎しみを抱いたことは一度もなかったと強調している。
「正直にいうと、私は未だにこれが理解できないでいる。母はとても優しい人だった。母は、『こんな兵士たちに一体どんな憎しみを抱けるというんだね? あの人たちは普通の人間で同じように戦争で死んでいったんだよ』と話していた。これは驚くべきことだ。ソ連の教科書、映画で育った私たちは憎しみを抱いていた。ところが、母にはどうしてそれが全くなかったのだろうか? 母の言葉を私はとてもよく記憶している。『あの人たちをどうしようっていうんだい? あの人たちだって私たちと同じように働いたんだよ。ただ戦線においたてられただけさ。』」