「議論の余地なく、これは非人道的な兵器使用である。それも、故意に市民を狙ったものだ。何しろ広島・長崎には重要な軍事施設はなかったのだから。言ってみればこれは、第二大戦中のドイツによる化学兵器使用にも勝る残虐行為だった。ドイツのガスは兵士に対して使用されたのだから。それでもガス攻撃は非人道的行為とされている。結果化学兵器は禁止され、今や廃絶されつつある。
日本への原爆使用に軍事的必要性はなかった。原爆投下の決定が下る前夜、7人の最高級米国将官のうち6人までが、軍事的必要性はなく、倫理的観点から野蛮きわまる反人道行為となる、と主張した。原爆ののち、日本の最高軍事委員会は開催されなかった。爆発現場を調査した日本の軍人たちは、破壊は甚大だが、それは1945年3月に米国が東京の大部分を爆撃し、焼き尽くし、10万人の市民を死なせた一件と同程度だ、とした。これもまた、絶対的に非人道的で、全く無根拠な行動だった。なぜなら東京には軍需工場や軍部はなかったのだ。しかし、のちの経過をみても、広島・長崎原爆は日本に降伏を決意させることはなかった。ソ連が参戦してはじめて、8月9日朝11時、最高指導部の会合が召集され、鈴木首相は、ソ連が参戦しては、日本の状況は全く絶望的だと明言し、降伏条件を飲むことを主張したのだ。
一番の問題は米国がいまだに日本に謝罪も悔いもしていないことだ。広島・長崎原爆について責任を有する人々は、安眠し、良心も痛まなかった。これが一番恐ろしいことだ。広島・長崎壊滅のあとにはほかの犯罪も続いたのだから。ベトナムで米国がナパーム弾で平和な村を焼き払った様子、ダイオキシンで森林・畑を根絶やしにし、人々が苦しめられた様子を我々は知っている。そのあとには恐るべきユーゴスラヴィア空爆があった。
もちろん、原爆を決定し、または実行した人は、現存しない。しかし、広島・長崎について法廷を開く意味があるとすれば、それは、その行為自体を裁くことにあろう。それは今後、同じような正確の悪行を防止するのに必要なことだ。また、米国が市民に対しこの非人道的で全く野蛮な行動をとったことを謝罪し、悔いることが、非常に重要だ。ちなみに1945年時点で既に存在した国際法に、軍事行動による損害からなるべく市民を守るように、との要求は規定されている。
むろん、広島・長崎に関する法廷が国連安保理の決定で開かれることは想像しにくい。米国がそれを阻止するだろう。今年5月、G7サミットのあと、日本は、広島訪問を提案したが、米国は拒否した。最近まで米国はハイレベルの広島・長崎訪問を避けていた。なぜなら心の奥底で、彼らは理解しているからだ。なんという恐ろしい犯罪を仕出かしてしまったのか、と。しかし悔いることは予定していない。その行動を見る限り、何ら良心の呵責も無いようだ。彼らは自分用に、都合のいい言い分を考案した。広島・長崎原爆は戦争を早期に終わらせ、米国の兵士らの命を救ったのだ、というのだ。しかし現実には、空虚な言い分である。
法廷開設は米国が否決するだろうから、現状では、政治家、社会活動家、学者、記者らからなる国際社会法廷の開設が可能なだけだ。こうした人らが集まり、問題を討議し、独自の判決を下す、というものだ。それは非常に大きな意義をもつだろう。もしかすると、法的拘束力ある国際法廷の開設を判決として出すかもしれない」