ところが、スターリンが原爆投下に恐れをなしたという発想が支持されているのは西側の専門家社会に限らない。この発想に対してどうやらラドチェンコ氏は戦いを挑んでいるのだが、実はこれは日本の専門家らの間でも支持されている発想なのだ。たとえば国際政治学者として有名な青山学院大学の袴田茂樹名誉教授もやはり、西側と見解を同じくしている。
スターリンが最終的には北海道の占領を放棄したのは日本に対する好意ではなく、ドイツと日本の敗北後、ソ連は米国を最も恐れたからです。したがって北海道を占領する、ないしはソ連の影響下に置くことを断念した最大の理由は、米国との衝突を恐れたからと言えます。ポツダム会談後に、広島、長崎への原爆投下という事件が起きたわけですが、これに関連して、今日までロシアと米国の歴史認識が対立しています。
ロシアは、ルーズベルト大統領の要請によってソ連は対日戦に参加し、ソ連が参戦したために日本は降伏したのだと主張しています。それに対して米国は、確かにルーズベルトはソ連の対日参戦を要請したが、しかし米国が広島、長崎に原爆を落としたから、日本は降伏したのだと主張をしています。この歴史解釈をめぐっては、ロシアと米国の見解は今でも対立しています。」
「原爆投下の都合の良い解釈は、米国が戦後の世界秩序の特殊条件下で必要としたことに立脚している。米国には真珠湾攻撃を行った日本を罰せねばならなかったし、米国人の生命を救わねばならなかったというものだが、これはもちろん『冷戦』であり、核を使ってソ連を恐喝していたのだ。
つまりこれは割合よく知られた話で、我々の史学史では論議が尽くされており、目新しいものは何もない。広島、長崎の原爆投下がスターリンの北海道占領計画にどのように影響したかということについては、私の知る限り、この問題は原爆投下の時点では最終的には解決されていなかった。これが決まったのはだいたい1945年8月の中ごろだった。スターリンからトルーマンに送られた書簡とそれに対するトルーマンからの返事が残されている。
Q:だがやはり、スターリンには北海道占領計画はあったのだとすれば、何がそれを放棄させたのだろうか?
「スターリンはトルーマンにあてた手紙でソ連軍がクリル諸島および北海道の一部の占領に参加できるよう頼んだ話は知られている。スターリンがこうした頼みの根拠に使ったのはソ連国民の世論だった。もしソ連が日本占領で何の分け前ももらえないとすれば、国民は気分を害するというものだ。
だがトルーマンは返信に、おそらく8月19日だったと思うが、クリル諸島占領にソ連軍の参戦は支持したが、日本軍の武装解除および北海道の占領にソ連軍が加わることは断固として拒否した。そしてこれをもってこの問題の討議は終了し、その後連合国間でこの件についての理解不足などは一切生じていない。だがスターリンが北海道占領をあきらめたのは米国に驚愕してのことではない。おそらく北海道占領に参加させてくれという依頼自体が米国を触診したことだったのだろう。
実際、スターリンは日本に占領区域を獲得できるとは本気であてにしていなかった。交渉を行なう際には当事者間ではこうした駆け引きが行なわれるものだ。実際自分に必要な分をしっかり確保するために、あてにしているよりもずっと多く、ずっとシリアスな条件を最初から突きつけてくるというやり方だ。このため、この際の取引はソ連がクリル諸島を占領区域として捕るぞ、ということを最終的に決定付けるためのものだったと思う。スターリンは北海道の一部をソ連が占領できるとは本気であてにしていなかったのだ。」
一方で米軍の「威力」についてはソ連内では全く評価されていなかった。なぜなら1944年12月、ナチス軍の注意をそらし、アルデンヌ高地にいた米英部隊への突破を許さないため、ドイツでの緊急進撃に師団を投入したことをソ連は忘れていなかったからだ。ほとんど壊滅状態にあった独軍を前におじけづくような米英軍にソ連を脅かすことなどできようか? 無理な話だ。このためスターリンが恐怖心から北海道占領計画を断念したとするのは笑止千万であり、米国が親切心をだして、わざわざ広島、長崎に原爆を落とし、ソ連軍の占領から日本を救ってやったというのも事実ではない。広島、長崎は一般の市民を殺戮した蛮行だった。この犯罪は戦争法廷で裁かれるべきものなのだ。