ロシアに対する怒りと憎しみの波は怒髪をついた。ロシアをあらゆる国際組織から追い出し、これに対する制裁を発動し、孤立化させようという呼びかけが大声でなされた。
数週間後、ロシアが国連に人工衛星から写した証拠写真を提出すると、ロシアの攻撃というのが嘘だったのが発覚した。ロシアがグルジアを攻撃したのではなく、米国に武装してもらい、養成されたグルジア軍が入念な準備を行った末に南オセチアを攻撃したことが明らかになったのだ。グルジア軍は武力でこの共和国への掌握権を奪還しようと画策していた。この共和国は1990年代、グルジアのナショナリストらの政権下にあることを望まず、アブハジアとアジャリヤとともにグルジアの構成体を出たのだった。
ロシア軍が南オセチアに向かったのは、罪咎めを受けないという意識から野獣化したグルジア軍がオセチアの一般市民を殺戮するのを止め、国連の委任状を得てツヒンヴァリに駐屯し、銃のみで武装したロシアの平和維持隊部隊を守るためだった。そしてグルジア軍は逃げ出した。米国製の新しい「ハマー」やイスラエル製のエレクトロニクスを満載に搭載した戦車の乗り捨てて逃げた。南オセチアを攻撃し、ツヒンヴァリの一般市民、ロシアの平和維持部隊を殺戮せよという犯罪的な命令を下したサアカシヴィリ大統領は、世界に対し、グルジアを「ロシアの攻撃」から守ってくれ狂ったように叫び、神経がおかしくなって締めていたネクタイを噛み始めた。
数年たってサアカシヴィリ氏は大統領選挙に敗北し、グルジアを出た。米国のいうところの「民主主義の擁護者」たる反体制派はサアカシヴィリ氏に対し、刑務所の拷問、反体制派の殺戮、南オセチアへの攻撃という犯罪を犯したとして、刑事裁判を起こした。
だが、西側の自由と民主主義の擁護者らはユーゴスラビア、イラク、シリア、リビアの市民を大量殺害することには良心の呵責をおぼえていなかったが、こうした擁護者らはサアカシヴィリ氏を法廷に送ることはなかった。ウクライナなどはサアカシヴィリにオデッサの市長の座を与えた。このオデッサとは昨年2014年の夏、サアカシヴィリに政治的視点ではよく似た輩が、何の罪もない市民を数十人も生きたまま火に掛けた場所である。サアカシヴィリのほかにもウクライナの政権機関には数人の元グルジア人官僚が招かれた。これらの元官僚らはグルジア新政権らが裁判にかけたいとしている人物ばかりだ。これは偶然のことではない。ウクライナのポロシェンコ大統領もまた一般市民を殺戮し、キエフの政策に同意しないドンバスの住民を武力で掌握させようとしている。これには南オセチアの一般住民の殺戮命令を下したサアカシヴィリ氏とその取り巻きの経験が必要だからだ。民主主義や人権を語るのが好きな西側がこうしたならず者たちの肩をかばうように、励ますようにたたいてやっている。そしてあらゆる殺戮、不快な出来事の責任はロシアにあるとしている。2008年8月のときと全く変わりない。だが私たちは実際はどうだったかを覚えている。せめてどういった終わりを告げたか、西側が覚えていてくれればいいのだが。