スヴィリードフは若い頃から才能を発揮した。レニングラード音楽院に入学する1年前の1935年に、初の声楽作品「プーシキンの詩による六つのロマンス」を作曲した。この作品は後に有名な声楽曲となった。そして音楽院2年生の時に、ソビエト連邦作曲家同盟に入った。
スヴィリードフは、膨大な数の作品を残した。またジャンルも交響曲、協奏曲、オラトリオ、カンタータ、ロシアと欧州の詩人の詩による声楽曲、さらに映画音楽など多岐にわたった。スヴィリードフの作品は、長い間、欧州ではほとんど知られることがなかったが、ロシアでは、評論家や一般聴衆の間で大きな成功を収めていた。スヴィリードフの音楽はシンプルだが、メロディーは叙情的で繊細、また斬新で、オリジナル性に溢れ、洗練された簡素さを持ち、表現力も豊かだ。
スヴィリードフの代表作の一つは、映画「時よ、前進!」のために作曲された組曲で、この作品は20世紀の音楽のシンボルとなった。自分に厳しく、小さなことにもこだわったスヴィリードフは、一つの作品を完成するまでに数年をかけたという。しかし、この作品だけは例外だった。監督に早急に作品を渡す必要があったのと、夜釣りに出かける予定があったため、スヴィリードフは、時計のアラームを設定し、わずか1時間でロシアで最も有名な曲の一つを作曲した。
なお、スヴィリードフと同じゲオルギーという名のスヴィリードフの息子は、レニングラード国立大学東洋学部日本学科を卒業している。スヴィリードフの息子ゲオルギーは、それまでロシア人専門家が研究したことのなかった日本中世の説話をロシアで初めて紹介したロシア人日本学者だ。ゲオルギーは、13世紀初期に成立したとされる中世日本の説話物語集「宇治拾遺物語」をロシア語に翻訳した。ゲオルギーは、京都で日本の学生たちにロシア語も教え、現代日本文学のロシア語への翻訳を続け、日本の大手出版社など向けにロシア文化に関する記事も執筆した。またゲオルギーは、父親の作品の敏腕「プロモーター」であり続けた。ゲオルギーは、ロシアの音楽家たちが日本で公演する準備を手伝ったり、支援を求めて彼のもとの訪れた日本のプロおよびアマチュアの音楽家たちのこともサポートした。
ゲオルギーは1997年12月30日に、長く患っていた病気が原因で京都で亡くなったが、サンクトペテルブルグに埋葬された。そしてその数日後の1998年1月6日、スヴィリードフも死去した。
スヴィリードフの生誕100周年にあたる2015年12月16日、モスクワ音楽院の大ホール、またスヴィリードフの故郷であるクールスク、そしてロシアのたくさんの町で、スヴィリードフを記念したコンサートが開かれる。
ロシアのテレビ「文化」チャンネルでは、スヴィリードフ生誕100周年を記念して、過去に録画された有名な音楽家たちによるスヴィリードフの作品の演奏会が1週間にわたって放送される。