ベーリング海峡によりロシア本土、ロシアのチュコト半島と分離されたアラスカが、ロシア帝国の版図に入っていたのは1741年から1867年の間だった。その後この地は、アレクサンドル2世により720万ドルで米国に売られた。当時この金額は、途方もないものと考えられたが、10年後にアラスカで金が見つかり、実は米国にとって、とんでもないほど安い買い物であったことが分かった。現在アラスカは、面積において米国最大の、そして天然資源が最も豊かな州である。そこには、ロシア語起源の地名が数多く残っており、現在に至るまでロシア語の姓を持つ人達が暮らしている。
1月14日モスクワのソルジェニーツィン記念在外ロシア人会館で、アラスカ発見275周年を記念する夕べ「ロシアのアメリカ、生きた記憶」が催された。モスクワの歴史啓蒙組織「ロシアのアメリカ」協会が主催したこの催しには、アラスカ史におけるロシア時代を研究する専門家、歴史学者らが参加した。
「我々が取り組んでいる事は、まさにロシアと米国の間に友好の橋をかける事だ。私個人としては、ああした制裁に断固反対だが、そもそも我々は、政治とは関係がない。ああしたやり方は誤りだと思う。協会の中で、我々は、文化交流や歴史交流の発展に取り組んでいる。この事はもちろん、ロシアと米国の間の関係改善を促している。」
アラスカの売却と開発の歴史は、今も多くの秘密と謎に包まれている。「ロシアのアメリカ」協会のメンバー達は、そうしたもののいくつかを解明しようと試みている。例えば、今御紹介したエングストローム氏と協会の会長であるウラジーミル・コルィチェフ氏は、2005年から2009年まで一連のアラスカ遠征を行い、1741年チリコフが船長を務めた「聖パーヴェル」号で祖国帰還を果たせなかった15人のロシア人船員の死の謎を明らかにしようと試みた。
遠征隊参加者にとって、ヤコフ島のサージ湾にロシア人船員が立ち寄った後を見つける事が大変重要だ。すでに、二つの帆を持った船を思わせるペトログリフ(岩石に描かれた絵)が見つかっている。一方米国人のクリス・ハワードは、真鍮のボタンを発見したが、それがどこのものか今も特定できていない。しかし入り江のどこかの海底に、複数のボートと一緒に沈んだ大砲や錨、そして銅製のボイラー2つが横たわっていることは確かだ。「ロシアのアメリカ」協会は、調査遠征が今後も続けられるよう期待すると共に、ロシア地理学協会に対し助成金の申請を続けている。
ロシア人航海士によるアラスカ発見から275周年の記念行事の一環として計画されているものの中には、ロシアの航海士達の偉業をテーマにした会議開催の他、モスクワのスハレフスカヤ広場にあるトロイツァ-ヴ-リスタフ寺院の鐘を、アラスカの町シトカ(ロシア領アメリカ総督アレクサンドル・バラノフが露米会社の支援を受けここに到着し、町を組織した。露米会社は当時のツァーリ・パーヴェル1世の認可を受け設立され、ロシア植民地での統治や交易を行っていた)にある教会の鐘と一緒に打ち鳴らすイベントなども含まれる。なおアラスカには全部で90のロシア正教寺院がある。