1905年1月から1906年7月、「ホトトギス」誌に連載された当時と全く同様に毎号順を追って掲載される。当時、日露戦争は2年目に入っていた。メディアはこぞってプロパガンダを行い、戦意高揚に努めていた。これを反映し、小説の中の猫さえ、猫軍団に入ってロシアの兵士を「引っ掻く」決意を表明している。しかし新聞が「大和だましい」を吹聴し、作家や詩人がそれに翼賛していたときに、夏目漱石は大いなる市民的勇気を示し、熱狂的愛国主義の情念を解体し、それを悪意あるパロディの対象にした。当時の多くの人の目に、そのような大胆さは、冒涜すれすれのものと見えた。
夏目漱石はそのメンタリティーにおいて、明らかに時代の先を行っていた。ロシアの歴史家・日本研究者、ロシア人文大教授アレクサンドル・メシチェリャコフ氏はそう語る。
「『猫』が書かれた数年は、日本で民族主義的情熱が過熱していた。ロシアでは多くの人が日本との戦争に反対していたのに、日本ではほとんど誰一人反対していなかった。そんな中、夏目漱石は、その独立した立場で際立っていた。日本ではそのような人はそう多くはなかった。ナショナリズムに自らを汚染させないで済んだ人などごくごくわずかだったのだ。また、夏目漱石は、西洋文学のスタンダードに沿って書いた、新時代の最初期の日本人作家のひとりだ。彼と森鴎外は文学の歴史の中に名を残しているばかりか、日本のインテリ一人ひとりに今も読み継がれている」
「翻訳と言うのは第一の条件だ。悪い翻訳はたやすく良い作品を台無しにし、その逆に、良い翻訳は外国における作品の普及にとっての第一の手段だ。この意味でストルガツキーの翻訳は非常に優れている。彼が一種の震源となったのだ。1960年代に日本語からの翻訳が非常に実り多くなったのもいわれのないことではない。ロシア語で、川端康成、安部公房などの本が次々と発表されたのだ」
夏目漱石がドストエフスキーの作品を愛し、自分との精神的な近さを感じていたことはよく知られている。夏目漱石が喀血で死にかけた後、1910年に、彼は次のようなメモを残している。「回復期に向った余は、病床の上に寝ながら、しばしばドストイエフスキーの事を考へた。ことに彼が死の宣告から蘇へった最後の一幕を眼に浮かべた」。1916年の遺作『明暗』にもドストエフスキーの影響がありありと現れている。漱石は登場人物たちが暗闇の中で必死に光への道を探している姿を描こうとした。しかしついに小説は完成されず、未完のまま残された。