モスクワ国立国際関係大学国際研究所主任研究員アンドレイ・イワノフ氏の私見-
北朝鮮が、国際社会、正確には米国から明確な書面による自国の安全保障を受け取るまでは、核兵器プログラムを放棄しないのは明らかだ。これは厚かましさでもなければ強情でもない。北朝鮮は過去の経験から欧米を信じてはいけないことを学んだのだ。1994年、ウィーンでの一連の合意の枠内で、北朝鮮の全ての核プログラムを国際原子力機関(IAEA)の管理下に置き、ロシア製黒鉛炉を拒否するのと引き換えに、北朝鮮に軽水炉の建設が約束された。軽水炉建設の日程は何度も延期され、2001年秋に基礎が築かれ、軽水炉の供給までたどり着いた時に、米国は証拠も提示せずに、北朝鮮には軍事目的のための秘密のウラン濃縮プログラムがあるとして非難した。そして軽水炉の供給は頓挫した。これは電力不足で苦しんでいた北朝鮮経済にとって大きな打撃となった。激怒した北朝鮮は核不拡散条約から脱退し、IAEAの査察官を追い出した。所謂「北朝鮮の核問題」は、このようにして発生した。この問題を解決するために6者協議のフォーマットが形成された。その目的は、北朝鮮を核不拡散条約へ呼び戻すことだった。それは簡単なことのように思われた。ウランプログラムが存在するという明らかにこじつけの非難を撤回し、ウィーン合意の実施を保証する、すなわち原発の建設を完了するということだ。しかし米国代表団は、「6カ国協議」の当初から要求を著しく高め、明らかに平和目的であるものも含め、北朝鮮が全ての核プログラムを停止することを求めた。なお長く困難な協議の後で当事者たちが合意にたどり着く度に、米国は新たな要求を提示したり、あるいは結果を無効にするために何かを考案した。例えば2005年、米国は、マカオにある「バンコ・デルタ・アジア(Banco Delta Asia)」に北朝鮮の口座を凍結させた。結果、その前に6カ国協議で成立していた重要な合意が決裂した。米国が今もこの戦術を使っているのは、対イラン制裁の長い物語が示している。米国は対イラン制裁を解除し、そして新たに制裁を導入したのだ。
日本も、日本人拉致被害者の解放を北朝鮮に義務付けようとして6カ国協議の複雑さに拍車をかけた。拉致問題はもちろん重要であり、解決が求められるが、この問題は北朝鮮の核問題とは全く関係がない。
そして北朝鮮には一度も核兵器がなかった。米国、正確にはジョージ・W・ブッシュ政権がその行動によって北朝鮮を核不拡散条約から脱退させるまで、北朝鮮は核兵器を保有していなかった。韓国の高い階級の外交官が私に語ったところによると、なおこの外交官は北朝鮮当局にいかなる親近感も抱いていなかったが、もしジョージ・W・ブッシュ氏が、ビル・クリントン氏が始めた北朝鮮との和解政策を拒否しなかったならば、北朝鮮はすでに全く別の国になっていた可能性がある。北朝鮮に対する米国の愚かな政策が、金正日総書記が始めた市場改革に反対する者たちの立場を強めたのは明らかだ。いずれにせよ、改革は続いている。スイスで学んだ金正恩第1書記は、もちろん権力を失うことを望んではいないが、国を改造し、孤立から抜け出すことを望んでいる。そして、制裁や対話の拒否で彼を隅に追いやらなければ、正恩氏はそれを成し遂げるだろう。