五輪で一連の成功を収めた米国水泳選手らは1932年のロサンゼルスで文句なしの勝利を収めるだろうと期待された。日本人たちのモチベーションや激しいトレーニングをめぐるルポルタージュは米国では無視された。結果、日本の水泳選手は5個の金、4個の銀、2個の銅メダル(米国は金1、銅2のみ)を獲得。このとき誰も日本の不正を非難しはしなかった。逆に、ジャーナリストや学者らは、技術への科学的なアプローチを賞賛した。
マン氏は成功を収めたコーチであり、泳法に関する理論的基礎研究者であった。たとえ集中的酸素吸入をしたとしても、それをドーピングと考えることはできない、ということを知らなかったはずはない。IOC(国際オリンピック委員会)もFINA(国際水泳連盟)もそれを禁止していなかった。マン氏の大学の医師らさえ反対した。酸素吸入の効果は数秒以上続かない、と。
しかし、マン氏は、酸素との戦争を宣言し、全米大学体育協会の次の会議で「薬物」を禁止することを約束した。しかし、関連する委員会は酸素「ドーピング」の問題を無視した。
ところで、この時(1934年)までに、「日本のドーピング」という観念が独自の生命をもち、唱道者から一人歩きし出した。米国におけるスポーツ生理学の権威ピーター・カルポビッチ氏は、酸素が水泳選手のスピードと持久力に及ぼすの影響を調査することを決めた。結果、酸素はわずかに速度を向上させるが、その効果は3分以上続くことがない。しかし日本の水泳選手はレース5分前に吸い込んでいた、ということになった。カルポビッチ氏はこれを広く大衆に知らしめ、「ドーピング神話」に騙されないよう牽制しようとした。しかし、成功しなかった。繰り返し否定されたにもかかわらず、架空の「酸素ドーピング」神話はしっかりと大衆の心理に根付いた。
一方、日本と米国のスポーツでの競争は続いた。国際大会では抜きつ抜かれつの攻防だった。1936年のベルリン五輪では日本が再び米国の水泳選手を破った。
ドーピング非難をやめた米国は別の「非スポーツ」的説明を探した。国家がスポーツ支援に割く巨費を示し、自由諸国が個人に過度の負荷をかけて訓練を行なう軍国主義の強国に対抗することはできない、とした。
おだやかでない結論が引き出される。日本の水泳選手を取り巻くスキャンダルが五輪スポーツに大きな変化を反映させた。ドーピングのテーマはフェアプレーの問題や選手個々人の健康状態ではなく、国家の誇りとメダル順位と連動するようになった。根拠ある論拠のかわりに、傷つけられた国家の威信が、選手の勝利を全体主義国家の支援にもとづくドーピングや、米国の水泳技術の巧みな模倣によって説明することを強いた。
Lenta.Ruより