柔道における露日の結びつきが銅像に結晶

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ウラジオストクのカラベリナヤ海岸通りに24日、ロシアの最初の柔道選手ワシーリー・オシチェプコフ及び日本の先達の銅像がオープンした。1917年に露日の柔道家の初の国際大会が開かれた場所の隣への設置だ。

20世紀初頭ウラジオストクに初の柔道学校を開いたロシアにおける柔道創始者ワシーリー・オシチェプコフ、オシチェプコフが学んだ講道館の創始者嘉納治五郎、講道館時代にオシチェプコフが知り合った柔術家苫米地英俊の三名だ。1917年7月に露日初の柔道選手権を開くため小樽高等商業学校の生徒らを連れてウラジオストクに来たのもこの苫米地英俊である。

記念碑はオシチェプコフに1917年講道館の新たな段を与えられた瞬間をとらえたもの。記念碑の製作者によれば、ロシアと日本の間の実りある文化協力を象徴している。

1914年まではロシアでは柔道は事実上知られていなかった。ロシアでの普及の功労者こそこのオシチェプコフだ。オシチェプコフは東京のロシア正教会の神学校の最初の弟子の一人として、幼少期と青年期を日本で費やした。1911年にオシチェプコフは講道館の訓練に参加、2年後にはロシア最初の有段者となった。 1914年にロシアに戻ったオシチェプコフは柔道クラブを開き、50人が参加した。 1917年7月4日には露日の柔道トーナメントを開催した。

その後オシチェプコフは防諜の仕事に付けられ、その後対日諜報に従事した。オシチェプコフの活動を研究している作家・ジャーナリストのアレクサンドル・クラノフ氏は語る。

「これは分厚い冒険小説にする価値のある驚くべき話だ。オシチェプコフ自身は、もちろん、諜報員になるとは知らなかったと思う。極東における潜在的な敵、主に日本に対して仕事ができるような未成年の育成という計画が準備されたのは日露戦争で敗北した後だ。計画は、野心的であった。極東で不法移民として使用するために国中から孤児(好ましくはモンゴロイドタイプ)を集めた特別な学校を開く、というものだ。しかし、プロジェクトの実現にはお金が足りなかった。そこで東京のニコライ司教神学校で子供たちを教えるという機会が利用されることになった。どのような基準で子供たちを選抜がなされたかは情報がない。しかし、いずれにせよ、正統の普及という名目で、13人のロシアの未成年が日本に留学するべく送られた。その幾人かが後に諜報員になった。中で最も有名なのがオシチェプコフだ」

オシチェプコフは 1926年に日本から帰国すると再びウラジオストクで柔道を教え、二段を保有する者に備わる権利を使って生徒らに達成度に応じて帯を授けるようになった。1929年末、オシチェプコフはモスクワに移され、武道や格闘技の分野での第一人者となった。 1931年には、オシチェプコフによって書かれた武装または非武装の相手に対する格闘法指南書がソ連軍の歴史上初めて出された。こうした仕事を継続するつもりだったが、1937年の秋に逮捕され、刑務所で死亡した。

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1938年、柔道という言葉が最後にソ連の公式文書に記された。これは人民の敵、日本のスパイと宣言されたオシチェプコフと柔道との関連性の欠如を強調するというスポーツ当局者の意向によるものかもしれない。1930年の終わり以来1960年代の初めに至るまで、柔道というものは、実質的にソ連では全く発展していない。かわりに柔道に基づいてオシチェプコフの生徒らが開発したサンボが登場した。

柔道への関心が再び高まったのは、柔道が競技としてはじめて登場した1964年の東京夏季オリンピックで競技が国際舞台に出たときだ。 1972年にはソ連柔道連盟が作られ、同連盟はソ連崩壊後、ロシア柔道連盟に継承された。ウラジーミル・プーチン氏の大統領就任が無言の強力なPRとなり、それとともに柔道人気が再び高まった。

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