第3章 「ロシア無頼」という教訓
2 ロシア革命下のペトログラード
内村剛介の主張に辟易する向きもあるかもしれない。それでも、ロシア革命下のペトログラードに目をやれば、ロシア無頼のボリシェヴィキだからこそ、革命に成功したのだと思えてくる。ここでは、長谷川毅著『ロシア革命下 ペトログラードの市民生活』をもとに、地に足のついた議論を展開してみたい。
まず、二月革命以後、ペトログラードの社会秩序は急速に悪化した。犯罪の急増のほか、住宅問題、食糧問題、衛生問題など、数々の問題が浮上した。一九一四年にはひと月に一件、一九一五年には二十日に一件であった殺人が一九一七年の三月から十月革命までの八カ月には二日から三日にかけて一件の殺人が記されているという(長谷川, 1989, p. 313)。窃盗・強盗も急増し、「ペトログラード・リストーク」紙の報道では、同年六月に入ると、一日に四〇件もの窃盗・強盗が報告されるようになり、十月四日に二五〇件、十月七日には三一〇件、十月十三~十四日の二日の二日間で八〇〇件にのぼった。
なお、一九一七年一月までに、ほぼ一五〇〇万人にのぼる人々が軍隊に第一次世界大戦のために動員され、五五〇万人の死傷者が出ていたという(松井, 1999, p. 36)。第一次大戦に一四〇〇万人の農民が徴兵されたとの情報もある(Smith, 1985, p. 86)。
麻薬常習者の摘発も目立つ。酒を求めた暴動、賭博の流行、偽札の流布、性病の蔓延など、さまざまな社会問題が広がっていった。賭博と阿片の常用については、第一次大戦中に廉価な労働力として中国人約一万人がペトログラードに住むようになっていたことが影響しているとみられている。
こうした治安悪化に人々は民警や労働者民警などの設立で対処しようとした。だが、これらの民警の犯罪防止力は弱かった。その理由は下記の通りである(長谷川, 1989, pp. 318-319)。第一に、民警組織が市・民警と労働者民警に分裂していたことで協調して犯罪を抑止する力が弱かった。第二に、労働者民警も市・民警も中央集権制を否定し、地方分権制のもとに機能していたため、地区組織の独立性が強く、広域犯罪に対処するのが難しかった。第三に、財政基盤の脆弱性がある。市・民警の場合、市政府の財源が枯渇していたし、労働者民警の場合には、労使間の関係悪化から使用者側からの支払い拒否が続発し、財政基盤が揺らいだ。
私刑「サモスード」という悲惨
もちろん、こんな恐ろしい首都にはいられないとして、ペトログラードからの脱出をはかる人々も多くいた。一九一七年の秋までに、約一二万人が同市を去ったといわれている(1917年時点でのペトログラードの人口は約二四〇万人だった)。しかし、そうした避難がままならず取り残された住民のなかには自暴自棄に似た社会的雰囲気が醸成されるようになる。それが爆発したのが「サモスード」と呼ばれる私刑であろう。これは、「警察力が無力化した状況で、犯罪に脅かされた市民が、スリや窃盗・強盗犯が捕らえられたときに犯人を取り囲み、その場でなぶり殺してしまうすさまじい私刑のことである」という(同, pp. 320-321)。
こうした状況について分析した長谷川毅のつぎの叙述は重大な含意をもっている。
「サモスードは、忍び寄る犯罪の危険をひしひしと感じ、犯罪を阻止しえない社会体制に愛想をつかし、いきどころのない怒りを感じていた民衆の鬱積した内的な不満の爆発である。……中略……サモスードは社会秩序の崩壊の象徴であり、またそれ自体が社会秩序の崩壊過程に拍車をかけたのである」(同, p. 321)。
宮殿で酒盛り
こんな時代であったから、内村のいうロシア無頼たるボルシェヴィキがその指導力を発揮するには格好の社会的雰囲気があったと言えるかもしれない。その証拠に、十月革命が成功してからも、少なくとも数カ月間は、無頼は無頼らしく振る舞うことができた。それを象徴するのが宮殿での酒盛りという事件であろう。
1917年十一月八日付新聞によると、オフィツェールスカヤ通り三五番地にあるクセニヤ・アレクサンドロヴナの宮殿にペトログラード・ソヴィエト執行委員会に属する自動車運転手の一隊が押しかけ、宮殿に押し入り、酒蔵を襲撃、その場で酒盛りを始めた。この騒ぎの鎮圧に向かった赤衛隊もミイラとりがミイラになって酒盛りに参加してしまう(長谷川, 1989, p. 270)。同年十二月二日付では、イワン・イオン商会のウォトカの酒蔵に、酒蔵を破壊せよという軍事革命委員会の命令書を携えた水兵と赤衛兵の一隊が現われると、群衆が集まり、酒蔵に突入、群衆はその場で酒をあけてがぶ飲みをはじめた。水兵と赤衛兵はこの騒ぎを鎮圧できず、増援を求める事態に発展し、機関銃の発砲にまで至る(同, p. 273)。翌日にも、ウォトカ工場の倉庫、レストランの酒蔵、ワイン酒造工場などが襲撃され、酒をめぐって酔っ払い同士の抗争事件も起こる。十二月五日付新聞によると、酒蔵を兵士が襲撃し、たちまち痛飲の大騒ぎがはじまると、これを鎮圧するために赤衛隊が派遣されたが、両者間での銃撃戦に発展した。同じような事件が六日付にも紹介される。十二月七日付では、軍事革命委員会による厳しい命令と軍隊の出勤にもかかわらず、ペトログラードの各地の酒蔵に対する襲撃があった(同, p. 277)。
十二月十二日付紙面によると、このころからようやく酒蔵への襲撃が下火になる。ただし、なくなったわけではない。いずれにしても、十月革命後もペトログラードは殺伐とした雰囲気のなかにあったと言えるだろう。一九一七年のペトログラードの実際の雰囲気を知れば、内村が「「無職ゆえの職業的革命家」は「無職のロシア無頼」とその信念、その手口において親類関係にあることは疑えない」と指摘したことが「当たらずとも遠からず」であることがわかるだろう。無頼の立場からロシア革命を見直すことは十分に説得力をもつ試みなのである。