今回の事件でVXが使用されたのを受け、これは北朝鮮が化学兵器を貯蔵していることを意味しているのだろうか?と議論されるようになった。いずれにせよAP通信は韓国軍の情報を引用し、北朝鮮が5000トンの化学兵器を保有していると報じた。
マレーシアの空港でVXが使用されたことを、北朝鮮に化学兵器があるという直接の証拠として使うことはできない。なぜならVXがヒトの皮膚に付着した場合の致死量はわずか100マイクログラム、あるいは体重1キログラム当たり0.0001グラムであり、金正男氏以外に殺害の実行犯も含めて犠牲者がいなかったという事実は、VXの量がわずかだったことを物語っている。なおマレーシアの専門家らは、物資の特定に時間がかかった。このような少量の化学物質は実験室で製造することが可能だ。
VXの合成方法は他の化学物質と同様、専門文献や公開特許から簡単に見つけることができる。化学に関する教育を受けていたり、実験室で働いた経験があれば、必要な機器、また1人を毒殺するのに十分な少量のVXの試薬を用いて実験室で実際に製造するのは可能だ。秘密の実験室の可能性については、「オウム真理教」が自ら製造し、東京の地下鉄でガス攻撃のために使用したサリンの事実が物語っている。したがって今回の事件で有毒化学物質が使用されたことを、北朝鮮による同物質の保有と結びつけるのは、少なくとも正しいことではない。
犯行現場ならびにVXを兵器として選んだことは、殺人を企てた者たちが金正男氏の動きを追跡し、彼らにとってより安全な場所で暗殺するためのリソースやエージェントを恐らく持っていなかったことを物語っている。空港は正男氏に近づける唯一のポイントだった。だが空港に武器を持ち込むのは事実上不可能だ。しかし毒物VXは、例えばアセトンで溶かして香水の瓶に入れ、少しの疑いなく空港に持ち込むことができる。この状況は、限られたリソースしか持たないが、例えば南北朝鮮の軍事紛争を挑発するなど、韓国の政策に影響を与えることを願う者によって今回の殺人が組織されたという考えを抱かせる。
したがって正男氏の殺人に北朝鮮が関与したという説は許容可能ではあるが、唯一のものではない。これはナンセンスだとする北朝鮮のあらゆる声明は北朝鮮の評判を落としてはいるものの、同事件への北朝鮮の関与、さらには北朝鮮が化学兵器を貯蔵していると示唆する同事件を巡る騒ぎを支持することは、根拠がなく危険だ。これは深刻な対立を引き起こす恐れがある。北朝鮮が同事件に関与したことを確認、あるいは否定することができるのは、拘束者らの証言の裏付けされた事実だ。なお殺人を企てた者たちが、監視カメラに実行犯の顔が捉えられることを考え、彼らをただやみくもに使った可能性もある。