マリナ・ミロノワ
プィシカ食堂
このつながりを築いたのは、ソ連の公共外食システムをつくったアナスタス・ミコヤン商工人民委員。1936年にアメリカに行き、オートメーションのドーナツ揚げ機をソ連に導入した。ソ連製ドーナツ揚げ機は各都市の食堂に設置された。サンクトペテルブルク市のジェリャボフ通り(ソ連時代の旧名で現在はボリシャヤ・コニュシェンナヤ通り)にあるプィシカ食堂の機械は、1958年の開店時から動き続けている。本物のソ連軽食を味わうことができるのは、この機械のおかげだ。だが重要なポイントはここの雰囲気。途切れない行列、若くない店員。物不足のソ連ぽく、ナプキンの代わりにカットされた紙が卓上に置いてある。プィシカと一緒に、ソ連ならではの飲み物を注文しよう。それは練乳入りの泡立ちコーヒー。立ち食いのテーブルを選んで(座る席のテーブルは現代の付属品)、まわりにいるあらゆる社会層の人がプィシカ愛で一つになっている様子を観察しよう。
所在地:Bolshaya Konyushennaya ul., 25, Sankt-Peterburg, Russia
ピロシキ食堂
所在地:Moskovskiy pr., 192, Sankt-Peterburg, Russia
チェブレク食堂
チェブレチナヤ(チェブレク食堂)「サルヒノ」は1962年にオープンした店。チェブレクとは肉の入ったジューシーな揚げ薄皮パン。このテュルク料理はクリミア・タタール人から伝えられ、ソ連の公共外食に加えられた。ただ、チェブレクが一番多く提供されるのはグルジア料理店である。ソ連にとっては文化の融合の象徴であった。ソ連は「ソ連国民」を統一しつつ、民族の違いをなくそうとしていた。サンクトペテルブルク最高のこのソ連のチェブレク食堂は、トビリシ(グルジアの首都)風である。店内には錬鉄製のシャンデリア、壁の浮彫パネルがあり、ゆっくりとしたサービスを良いサービスだと考える給仕がいる。待つ価値はある。かつてここの長い行列に並んでいた客たちが、青春時代を思い出す味なのだ。熱々のチェブレクを片手で持ちながら、グルジア・ワインの入ったグラスを別の手で持ち上げる。ほら、ソ連の他民族の祝宴の味がする。
所在地:Voznesenskiy pr., 55, Sankt-Peterburg, Russia
ブリヌィ食堂
ブリンナヤ(ブリヌィ食堂)「ロシアのブリヌィ」は1980年代にオープンした店。営業時間は客よりも店員思いで(休日は休み)、インテリアは無味乾燥、サービスは最低限だ。だがソ連国家規格(GOST)に合わせた料理の質を維持しているため、かなり良質である。これは社会主義ユートピアに亀裂が入ったが、新たな現実への移行がすぐそこにあるとは誰も考えていなかった奇妙なフラストレーションの時代、1980年代の食堂の特徴である。ニシンの具をのせる独特のブリヌィを食べて、ソ連帝国最後の10年を味わってみよう。
所在地:Gagarinskaya ul., 13, Sankt-Peterburg, Russia
リュムカ酒場
ストレミャンナヤ通りにあるリュモチナヤ(ショットグラスのリュムカを意味する酒場)。"軽飲軽食"の店だ。ウォッカ一杯を飲み、簡単な肴をつまむ。とても安くて、便利なロケーションで、大学教授、ボヘミアン作家、工場の従業員が同じカウンターで飲むソ連の酒場の雰囲気がある。今日でも「ウォッカ+ブテルブロド(オープンサンド)」は100ルーブル(約190円)以下。とはいえリュムカ酒場はただ安いだけの飲み屋ではない。これはレニングラード独自の文化施設である。
ソ連政府は創作と思考の飛躍に対して厳しかった。飛躍は許されたが、後ろ向きに限られた。芸術、技術、科学のエリートの多くは、何も言えないこと、制限されていることにストレスを感じて生きていた。1960年代後半以降のソ連の失われたインテリ世代にとって、リュムカ酒場は心の通じる見知らぬ仲間たちと飲むことのできる形而上学的な力の場となった。みすぼらしい「真面目な労働者」が古典詩を読み、見知らぬ人同士で存在の空虚に関する哲学的議論をしていた時代が、このリュモチナヤにはぼんやりと残っている。「ソ連」の旅で英語を話したくなったら、ここでは会話できる可能性が高い。サンクトペテルブルクの外観ではなく、魂を知る最高のガイドがここにいる。アルコールは健康に害を与える。飲む時は肴をつまむことを忘れずに!
所在地:Stremyannaya ul., 22, Sankt-Peterburg, Russia
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