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クリルの元住民たちは、このような中間的な決定に満足するのであろうか。往来が簡素化されるだけで、彼らにとっては十分なのだろうか。スプートニク記者は、モスクワを訪れた千島歯舞居住者連盟(千島連盟)の脇紀美夫理事長(国後島出身)、児玉泰子理事(歯舞群島志発島出身)、畑山英憲理事(歯舞群島多楽島出身)と懇談した。彼らのような元島民一世は、現在約6300人ほどにまで減ってしまった。彼らはそれぞれ、故郷での生活の様子と、引き揚げ後の苦労について話してくれた。
脇理事長「ロシアの人々に、我々元島民の気持ちを知って頂きたいという気持ちで、やって来ました。島では、物質的には恵まれていなかったものの、のんびり豊かに、平和に暮らしていました。4歳から7歳までの3年間、ロシア人の子どもと石蹴りをしたり、小川で魚を取ったりして仲良く一緒に遊んだ記憶があります。ロシアと日本が戦争をしたということを、当時は理解していませんでした。ロシア人の友だちの親から、乾パンや缶詰をもらって食べたこともあります。そういう面では険悪な雰囲気ではなく、仲良く暮らしていました。7歳のとき強制送還され、親戚を頼って羅臼へ移住しました。全財産を島に残してきたため、引き揚げ後は本当に大変でした。親は家族を養うために大変な苦労をしました。だからこそ我々は、島を追い出される辛い経験を、現島民にさせてはいけないと考えています。」
児玉理事「我が家は祖父母も含めると11人の家族でした。家族の中で最も島に帰りたがっていたのは祖母でしたが、その願いが叶わないうちに亡くなってしまいました。母も3年前に亡くなり、11人の中で今は4人しか残っていません。島を離れてから、一度も11人全員で暮らしたことがありません。私にとって、島は大切な家族との思い出の場です。」
畑山理事「私が4歳の時にソ連兵が島に上陸してきました。両親は身の危険を感じ、生活用品など一切持たずに夜中に親戚の船で脱出し、北海道の親戚の家に匿われました。そのため、島を出た後の生活はとても苦しかったです。」
3人とも、ビザなし訪問の枠内でクリルを訪問したことがあるが、制限が多く、その滞在時間や内容については満足していない。
児玉理事「昨年は生まれ故郷の島に行きました。行ったと言っても、島に上陸したのは3時間半だけ。草が高く茂っている中を1時間以上歩きました。現在は無人島で、家はなく道もありません。みんなで助け合いながら、草をかきわけて、家があったと思われる場所にようやく到達して、すぐ引き返しました。60人くらいで訪問しましたが、多くの人が『帰りたくない、このまま隠れてしまいたい』と言っていました。しかし、実際にそのようなことをすればビザなし訪問自体が禁止になるでしょう。やむを得ず船に戻りました。船では夜中まで地図を見ながら、『あの家はどこにあった』なんて、懐かしい話をしました。」
彼らは、両首脳が勇気を持って取り組めば、領土問題に終止符が打たれるのではないか、そうであってほしい、と願っている。脇理事長は「領土問題の解決は交渉事なので、お互いに歩み寄りが必要になるでしょう。元島民としては四島の返還を求めていますが、両国首脳同士で合意した結果は、理解する覚悟でいます」と話す。児玉理事も「両首脳間で領土問題の解決方法が決まったときには、元島民である我々はどんな結果であろうと反対しません」と延べ、希望を込めて言葉を重ねる。
千島連盟代表団は、ロシアのジャーナリストや識者、国会議員らと意見交換をしたほか、モスクワ市内の大学で大学院生とも懇談した。若者たちは総じて日本に興味があり、「早く平和条約を結べばよい」「クリルでの共同経済活動は何の問題もない」などの意見が出た一方、「ロシアの主権下で自由往来さえできればそれで満足なのか。それとも日本の主権の下でなければ納得できないのか」などと、鋭い質問も飛んだ。