スプートニク日本
日本語で放送するからには日本語の原稿も、アナウンサーも必要である。日本人初のアナウンサーになったのは福岡県出身の元炭鉱労働者、緒方重臣さん。彼は自ら「ムヘンシャン」という通り名を名乗っており、職場の仲間は彼の本名を知らなかったという。スターリン時代は身の安全のため、本名を隠して働くことは珍しくなかった。彼の呼び名の由来や数奇な運命については、こちらの番組をお聴きいただきたい。ニュース原稿をロシア語から日本語に訳していたのは野坂龍さん。彼女は後に日本共産党議長となる野坂参三氏の妻で、当時はモスクワにあるホテルに滞在していた。
「モスクワ放送」と「ロシアの声」は、ともにラジオ局であったが、「スプートニク」になってからの一番の特徴は、情報を伝える媒体の変化だろう。情報の柱はニュースサイトとなり、Facebook やTwitterなどの定番ソーシャルネットワークに加え、最近はインスタグラムも始めた。日本語に関して言えば中波・短波ラジオは中断しているが、オンラインで視聴できるポッドキャストを導入し、時と場所を選ばず好きな番組が聴けるようになっている。媒体の多様化によってリスナー・読者・フォロワーの皆さんが増え、それぞれの形でスプートニクとつながっていてくれることは私たちにとって何よりの喜びである。
モスクワ放送時代から60年以上も聴き続けてくださっているベテランリスナーの鈴木義一(すずき・よしかず)さんは、次のように話している。
「1958年、15歳のときに中波ラジオを聴きました。当時高校生だったのであまり社会情勢のことはわかりませんでしたが、日米安保の問題があったことは記憶しています。翌年にモスクワから初めてベリカード(海外放送の受信確認書)をもらいました。封筒にキリル文字が書いてあって、未知の世界に足を踏み入れてしまったな…と思いました。以前は、『科学と技術』と『文化の世界』が好きでよく聴いていました。高齢化が進んでいる古くからのリスナーは昔の番組のアーカイブのほうが懐かしいですが、もっと若い人をひきつけるためにどのようなことをすればよいか、スプートニクが考えてくれたらよいと思います。」
実はここだけの話(?)75年の間には日本語報道の打ち切り危機は何度もあったし、実際に統廃合された部署もある。日本語報道および放送が今日まで続いてきたのは、もしかすると奇跡かもしれない。スプートニクはこの伝統を大事にしつつ、ロシア発のメディアとして、他では読めない情報・聴けない番組を、これからも日本人読者の皆さんにお届けしていく。
75周年記念の特別番組はこちら!