ロシアと日本の首都を結ぶ航空路の歴史は、1967年4月17日に始まった。これに先立つ交渉は、12年にも渡った。1956年の共同宣言調印後、ソ連と日本の関係は著しく改善され始め、ソ連民間航空省は、シベリア経由で欧州から日本へ至る航空路を開設してはどうかと提案した。とはいえ、ソ連政府では、このアイデアに皆が賛成している状況とは、程遠かった。なぜならルートが、秘密施設がある場所も含んだ土地の上空を通るためだった。しかし最終的に意見の違いは克服され、日本が、最初のそして主要な交渉パートナーとなったのだった。
1966年1月末、モスクワでアエロフロートと日本航空による航空輸送開始に関するソ日航空協定が調印された。この協定は、翌1967年3月3日に効力を発した。まさにこの合意が、実際上、乗客及び貨物輸送において最も収益性の高い市場、つまり欧州とアジア太平洋地域を結ぶ最短ルートであるシベリア横断ルートを開いたのである。このルートは、それまで使われていた北極ルートより、2500キロも短かかった。当時世界最大の旅客機だったツポレフ114型機は、初のシベリア横断ルート飛行という大任を担うにまさにぴったりの存在だった。同機は、ターボプロップエンジン4基を搭載し、総容量6万馬力で、ユーラシア大陸横断を軽々と成し遂げた。1966年8月10日、旅客をのせないテスト機が、羽田の東京国際空港に着陸した。この飛行は、離着陸の際、困難を伴った。なぜなら日本側が、東京上空を飛行するのを断固認めなかったからだ。そのためテスト機は、離陸後すぐに、極めて低い高度とスピードで転回しなくてはならなかった。しかし、ハリトン・ツホヴレボフ機長率いるソ連のクルー達は、この課題をみごとにやり遂げた。
50年前 1967年に東京とモスクワ便が開設されました。Tu-114にはJALとアエロフロートの乗員が乗り込みました。#ソ連#日本 pic.twitter.com/4Q91kM0NbU
— それでもソ連bot+ (@sovietsoreyuke) 17 апреля 2017 г.
1967年4月17日から20日にかけて、モスクワ-東京-モスクワ間の初の旅客便の運航が行われた。乗務員は、ソ連と日本の混成チームで、それぞれ5人ずつのフライトアテンダーが機内でのサービスにあたった。機体は、アエロフロートと日本航空のそれぞれのシンボルで飾られた。モスクワ-東京線は週1便で、飛行時間はモスクワ-東京間が10時間35分、東京-モスクワ間が11時間25分だった。運航サービスに伴う収益や出費は、双方が折半した。
1970年、アエロフロートと日本航空そしてエア・フランスは、東京-モスクワ-パリ線開設に関する合意書に調印した。そのすぐあとBOAC(英国海外航空)も、東京-モスクワ-ロンドン線開設に関する同様の合意書に調印した。そして同じく1970年、アエロフロートと日本航空は、それぞれ別々に運航を始めた。当時、西ヨーロッパへモスクワ止まりで、あるいはトランジットで行くのは、大部分が日本人だった。しかし現在、状況は変わりつつある。アエロフロートばかりでなく、日本航空の乗客の中に、ロシア人がますます増えている。これについて、日本航空の藤田 直 志(ふじたただし) 取締役専務執行役員は、次のように述べている(ロシア語からの翻訳)-
また最初のモスクワ-東京便のスチュワーデスとして勤務した経験を持つタチヤナ・ヴィノグラードワさんは、スプートニク日本記者に、当時の思い出を次のように語ってくれた-
「客室乗務員の選抜は、大変綿密に行われた。英語を習得している必要があったし、自分をコントロールする術を身に着けている必要もあった。肉体的に強靭であると同時に、乗客にソフトに愛想良く接する必要もあった。こうしたすべてのことを、私達はコースで学んだが、私達は、多くのことを日本人の同僚達の真似をして学んだ。とくにブランドスマイルがそうだ。機上での共同作業は、プロとしての経験を交換するよい助けとなった。しかし私達が学んだ最も肝心なものは、自尊心だ。なぜなら私達は、ただ乗客にサービスするだけでなく、自分達の会社を、そして自分達の国を代表していたからだ。私の初めての東京訪問は、永遠の思い出となった。私がそれまで見た事のない世界で、自然も文化も別のものだった。この事も、私の見識を大きく広げてくれた。」
今年の3月27日から、日本航空は、モスクワ-東京便を週5便にまで増やしたが、7月1日からは週7便、つまり毎日運航するようになるとのことだ。