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スプートニクは6日、リア・ノーヴォスチと共同で、ロシア人の読者に向けて広島と長崎の被爆体験を紹介した。読者からは「ドイツが先に降伏していなければ事態は変わっていただろう」「もしソ連の核兵器開発が間に合わなければ、同じように原爆を落とされていたのではないか」「戦争の勝者だからといって責められないのは遺憾だ」「そういうことを一度でもやった国は、今度は自分たちがやられるのではないかと常に疑心暗鬼になる」などといった声が寄せられた。今日は、その中でも反響があった長崎の山脇佳朗さんの体験をお伝えする。
山脇佳朗さんは、爆心地から約2.2キロの自宅で被爆したとき、11歳だった。山脇さんが双子の弟とともに昼食をとろうと食卓についた瞬間、青白い閃光が走り、激しい爆風が家の中を吹きぬけて、家はめちゃくちゃになった。山脇さんはその日、学徒動員先の工場から帰ってきた兄と一緒に防空壕で父親を待ったが、夜になっても帰ってこなかった。
翌日、山脇さんたちは兄弟3人で父親を迎えに勤務先の工場まで行くことにした。山脇さんたちは、工場責任者である父は、被害の後始末で忙しいのだと思っていたのだ。後でわかったことだが、その工場は爆心地から500メートルしか離れていなかった。工場に近付くにつれて被害は凄まじくなり、焼けただれてゴム人形のようにふくれあがった死体が所かまわず転がっていて、目だけが白く光っていた。橋まで来た時、祈るように首をたれた死体が両側にずらりと並び、川にも素裸に近い格好の死体が浮いていた。若い女性の死体が白い帯と一緒に浮いていると思ったら、横腹から飛び出した長い腸だった。
工場についたが、そこで山脇さんたちが見たのは、笑ったような表情で亡くなった父親の姿だった。火葬場は破壊されて使えず、焼け残りの木材を集め、工場の人の助けで遺体を荼毘に付すことになった。遺体は積み重ねた柱の上に寝かされ、さらにその上にうずたかく木切れが積まれた。火が放たれ、父親の突き出た二本の素足を炎がなめていく様子を見て、山脇さんは涙があふれて止まらなかった。しかし翌朝、骨を拾いに来てみると、手足だけが骨になり、遺体は灰に埋もれたままだった。もう工場の人はおらず、子どもだけで火葬をやり直すこともできない。手足の骨だけで父親を見捨てる気にはなれず、「頭の骨だけでも持って帰ろう」ということになった。山脇さんの兄が箸で軽く父親の頭蓋骨に触れたとき、それは脆く崩れ、白濁した中身が流れ出した。山脇さんたち兄弟はそれ以上見るに耐えず、足早にその場を離れた。
9日に長崎で行なわれる原爆犠牲者慰霊平和祈念式典では、長崎市の田上富久市長が「平和宣言」の中で、7月に国連で採択された核兵器禁止条約に言及する。この条約を評価し、米露などの核兵器保有国や、日本のように核保有国の傘下で守られている国に対して、安全保障の方針転換を迫る予定だ。