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1917年の革命後の時代
1927年から1935年までのソ連では、新年と特にクリスマスを祝うことは厳しく禁止されていた。1935年になってやっと、当局は何らかの手段でクリスマスの祝日を復権させたが、無神論国家のソ連ではクリスマスではなく、新年が祝われた。新年の象徴となったモミの木は、「正しく」飾りつける必要があった。イエス・キリストの姿も、ベツレヘムの星も、小さな鐘も、一切飾ってはならなかった。
1930年代 北極の開拓とソビエト国家の強化
1937年、教育人民委員部は、児童のために新年の祝賀行事を開催する際の手引書を出版した。玩具の寸法や手製の飾り玉といったヨールカの飾り方が紹介され、防火規則についても書かれていた。
小冊子には、「モミの木の頂上には、木の高さに応じて赤あるいは銀色の五芒星を飾らなければならない。枝には、花や昆虫を表現した鮮やかなガーランド、動物や鳥の姿、雪の結晶、航空機、落下傘を飾ることができる」と記されている。
絵が描かれた紙片をつないで作ったガーランドは広く普及し、1960年代までソ連で生産され続けた。
1940年代 ナチズムとの戦争
戦時中、錫で作られた動物の姿をした装飾が製造・絵付けされ、針金や古いランプ、薬瓶を使ってありとあらゆる装飾が作られていた。
さらに、ボール紙や色のついた布地、卵の殻で作った手製の玩具もヨールカを飾った。
戦争終結後の1949年、ソ連ではロシアの偉大な詩人、アレクサンドル・プーシキンの生誕150年が祝われた。ヨールカを飾る玩具も、『金の鶏』や『ルスラーンとリュドミーラ』、『サルタン王の物語』などプーシキンの作品に登場する主人公を表していた。
1950年代 戦後の復興期
1950年代、戦後の国は復興しつつあった。この時代の玩具は様々な職業の人々を表現し、戦争におけるソ連の勝利を象徴するものだった。例えば、「15の共和国、15人の姉妹」という装飾シリーズは、ソ連の諸民族の民族衣装を着た15人の女性の姿を表していた。
ヨールカの装飾には、綿やガーゼでできた玩具も使われた。玩具は雲母を混ぜた糊で覆われ、これにより玩具はより硬くなった。人形や動物の顔は粘土や張子、布地から作られていた。
洗濯ばさみで作った玩具もあった。小鳥や小動物、ピエロ、音楽家、小さな家、緑色の或いは「雪に覆われた」小さなヨールカが製作されていた。
1960年代 農業の改革と宇宙の征服
中でも最も人気を集めたのはトウモロコシの穂だった。トウモロコシの穂をかたどったヨールカ用玩具は、1991年のソ連崩壊に至るまで生産され続けた。
ユーリー・ガガーリンによる人類初の宇宙飛行は、ソ連の歴史的偉業である。宇宙空間の征服は、1961年以降に主要なテーマとなった。このことはヨールカの装飾にも影響を与え、人工衛星やロケット、宇宙飛行士をかたどった玩具が現れた。
赤い星の代わりに、今やヨールカの頂上にはロケットの先端部分が飾られていた。
一方、芸術家たちは、小さな氷のかけらのような形をした装飾を作るようになったが、これはソ連の「雪解け」時代を反映していたのかもしれない。
1970年代 安定の時代
1970年代、毛織物やボール紙、針金でできたヨールカ用装飾に代わって、プラスチック製の玩具が登場した。
カールソン、クマのプーさん、シロクマのウムカ、チェブラーシカといったソ連アニメのキャラクターたちが、ロシア民話の主人公たちを新年のヨールカから追い出してしまった。
1980~90年代 モスクワ五輪と政治的変化
産業の発達がヨールカを飾る玩具の生産にも影響を及ぼした。生産工程はコンベアに移され、玩具はより独創性を失い、より抽象的なものになっていった。1980年代から90年代、ヨールカには大きな飾り玉や小さな鐘、小さな家を見ることが多くなった。
1980年のモスクワ夏季五輪以降、五輪マスコットのミーシャや五輪聖火、サッカーボールやバスケットボールをかたどったヨールカ用玩具が現れた。
ソ連における政治的変化の時代である1980年代末、流行したのは占星術だった。毎年、新年のヨールカには、他の玩具に混ざって、小さなサルや犬、猫の姿もあった。
ソ連時代のヨールカ用玩具の大部分は、昔ながらの技術を使って手作りされ、このことがこれらの玩具をより「人間らしさをもった」ものにしていた。現在、ヨールカの装飾を現代風にアレンジする努力が続けられているが、売り手がそのような装飾を褒めれば褒めるほど、以前の装飾の方がもっと良かったと、我々はますます納得するのである。何と多くの思い出が、我々の子供時代の新年のヨールカと結び付けられていることだろうか。