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糸数慶子さん(70)は沖縄県読谷村で生を受けた。生まれたのは日本が第2次世界大戦に敗れて2年後。米国の沖縄統治は始まっていた。糸数さんが25歳の時、沖縄は日本へ本土へ復帰したものの、だからといって平和な暮らしが戻ってきたわけではなかった。糸数さんはバスガイドから参議院議員へ転身することで、日夜、沖縄県民の利益を守り続けている。
本土復帰の年に誕生した娘に沖縄の希望を託し、「未希」と名付けた
私は生まれたのが1947年なので、昭和22年。ですから、ちょうど物心つくどころか大人になっている時期ですから、復帰したいという思いがものすごく強かったですね。私が生まれ育った読谷村(よみたんそん)は演習をやるし、パラシュートの降下訓練はやるし、日常的に目の前に米軍の嘉手納基地があるので、日常の中に米軍が入り込んでくる。学校の校庭にパラシュートがわーって降りてくるとか。青信号で渡っている最中に高校生が米軍の車両に轢かれて亡くなって、でも米兵は無罪放免、罪を着せられるわけではなくてアメリカへ帰ったらもうどういう罰を受けたのかもわからないっていう状態でした。それが復帰前の私の生活です。
私は1972年1月に結婚して10月にはもう赤ちゃんが生まれました。うちの娘は復帰の年に生まれているから、この娘が二十歳になったり、選挙権を得られる頃にはもう沖縄はすごく変わってるだろうと思って、娘の名前を未来の希望と書いて「未希」っていう名前にしたんですよ。でも娘も結婚して子供も2人できて、ますます沖縄にはオスプレイが配備されたり、知事選挙でも辺野古に新しい基地をつくらせないっていってみんな運動をしているのにそれを無視する今の日本政府を見てたら、復帰してよかったのかな、どうなんだろうっていう疑問さえ持ってきますね。
復帰前と復帰後と、確かに生活は豊かにはなりましたけど、なんだか県民の人権とか尊厳とかを考えると、全然変わっていないという感じです。精神的なところから考えていくと、沖縄の人が本当に今満足しているかというと、100%満足はしてないと思います。
「本土の人は沖縄を植民地扱いしている」
沖縄の人たちは本土に復帰して47ある日本の都道府県の中の1県になったんですけれども、でも今の状態を考えると復帰して46年経ったけど、相変わらずアメリカに占領されている、植民地みたいな対応の仕方を日本の国がやっているんですよ。
47の都道府県の1つの県、私たちの思いは140万しかいないから、日本の1億7000万という国民の中では、こんなわずかなちっちゃな地域のこんなちっちゃな人たちのたった140万しかいない人たちの思いなんか切り取ってしまってもいいという感じ。日本にはアメリカとの付き合いが大事なんですよね。
米軍の基地とか米政府の人たちは自分たちは良き隣人ですよって言うけど、とんでもない。良き隣人って言いながら20歳の女性をレイプしたりね、殺害して、ほったらかして、本当に白骨化する状態までね。そのまま遺棄した事件が2年前にありましたけど、沖縄の人たちの命をこんなに粗末にする人たちは良き隣人じゃないと私たちは思ってるんですね。
米軍は歓迎されてると思ってるんですよ。私は歓迎していません。アメリカ人が嫌いというわけではないんですよ。アメリカの人は大好きですけど、娘たちも3人ともアメリカに留学した経験があるので。でも軍隊はノーと言う。なぜかというと軍隊で鍛えられた人たちは人を殺すのが仕事だから。殺される前に殺すという訓練を受けているから、特に女性をこうやってレイプしたり殺したりっていうね。
そういう事件は基地がある限りあるんですね。だから女性の事件を考えたり子供たちの人権を考えたりすると、まあやっぱり戦争につながる基地は反対なので、そういうことを考えていくと独立も視野に入れて運動した方がいいのかもしれないなって思います。でもまだそういう思いの人は沖縄にはごく一部です。少数派です。
「私は沖縄の独立を支持しています」
これだけ沖縄の人たちの気持ちをこうやって訴えて、私も国連に行って訴えたこともあります。スイスのジュネーブでもニューヨークの方の国連本部でも訴えて、沖縄の人たちの思いをなぜ聞いてくれないんですかって。先住民の方々と一緒にこの土地は私たち沖縄県民のものだから沖縄県民に返してくださいって訴えに行ったんですよ。私たち沖縄人が復帰して46年経っても県民の思いが届かないんだったら、もう独立してもいいんじゃないのっていうのは、どちらかというと私も賛成の立場です。いきなり独立は無理かもしれませんけど、本当は基地を全部返してもらったら、返してもらったあとの跡地を商業ベースとして活用していくと経済もよくなるので、私は現実的にあり得ると思ってるんですよ。