スプートニク日本
私にとって平成といえば、忘れられない初めての日本旅行である。1980年代末当時、膨らみつつあった日本経済の「バブル」はまだそれほど感じられなかった。銀座はぶらぶら遊び歩く人々と買い物客で溢れ、タクシーは予約が途切れることがなかった。1960年代のブームの初めに建設が始まった新幹線は、路線もスピードも伸び続けていた。日本各地に自動販売機が次々に置かれるようになっていた。自動車のトヨタ、時計のセイコーといったブランド、ソニー、シャープ、東芝、三洋電機の家電製品、任天堂やセガのテレビゲームは世界のすみずみにまで名をとどろかせていた。秋葉原は日本の家庭用最新技術の象徴だった。当時の私の目には、製品の多様性に慣れていなかった多くのロシア人がそうであったように、日本はモノにあふれかえった島に見えた。1991年にはバブルが崩壊した。給与の伸びは止まり、インフレが終わり、経済不況が始まった。経済危機の後遺症は長期にわたって継続し、この時期が平成の「失われた10年」と呼ばれる根拠となった。
さらに、日本では定期的に地震と津波が発生することも日本人は知っている。同じ1995年(平成7年)、神戸で大地震が発生し、6434人が死亡、約4万4000人が負傷した。神戸には私の友人が住んでいたが、幸いにも、怪我をすることなく生き残った。しかし、彼女とその母親が住んでいた家は大きな被害に遭った。
その後、世界を震撼させる出来事が発生した。2011年3月の大地震と大津波は日本史上、最も破壊的なものとなった。テレビカメラは、破壊的な津波が沿岸に押し寄せ、経路上にある全てのものを洗い流していく姿を中継していた。アナウンサーは切迫した声で、福島第一原子力発電所の冷却システムが停止した、事故に繋がるかもしれないと伝えていた。そして、その事故が本当に起こったとき、それは日本の歴史にとって暗黒の日となった。事故から4年後、私はロシアの小児科医の代表団と一緒に福島市を訪れた。そこかしこに気詰まり感と不安が感じられた。それは何よりも、子どもの健康に対する不安だった。しかし、多くの人たちはすでに福島を離れ、残った人たちは医師や放射線防護の専門家の指示をすべてきっちりと守っていた。現在も廃炉作業は続いているが、すでに日本国民はこの試練も立派に乗り越えたと言える段階に来ている。
令和がどのような時代になるのか、日本の歴史にどのような功績を残すのか、予測するのは難しい。平成の時代に冷え込んだり温まったりを繰り返したロ日関係が、新しい時代には安定した友好関係になることを期待したい。私はこれからもいつでも喜んで日本を訪れるだろうし、平成の時代に感謝の気持ちを感じている。なにしろ、私は人生の大部分を平成の時代に過ごしたのだ。