道の始まり
1999年8月9日、ロシア初代大統領ボリス・エリツィン氏は、セルゲイ・ステパーシン首相を解任、同日に第一副首相に任命されていたプーチン氏が首相代行となった。プーチン氏はその前、ロシア連邦保安庁長官とロシア連邦安全保障会議書記を兼任していた。
だがプーチン氏は4か月間で評価を上げ、第1回投票で勝利することができた。
ベスパロフ氏はこのような成功について、いくつかの要因によって可能となった可能性があると述べている。その要因とは、エリツィン政権に疲れた様相のロシア社会を背景にプーチン氏は真逆に見えたこと、選挙屋の活動の成功、北コーカサスの過激派武装勢力との対立を阻止したいという願望などだ。
ベスパロフ氏は「エリツィン大統領が辞任するまでにプーチン氏は次期選挙のナンバー1候補者と見なされた」と語っている。
1期目の任期
プーチン大統領の1期目の任期は、すべての専門家が指摘しているように、新たな国家元首としてすべての期待に応えることができたため、最も成功裏に進んだ任期の一つとなった。
ベスパロフ氏は、プーチン大統領は力を用いた厳しい措置と、当時も今もその支持者であり続けているリベラルな経済政策の必要性を兼ね備えるという課題に直面したとの見方を示している。
政治学者のコンスタンチン・カラチョフ氏はプーチン大統領の1期目を振り返り、その成果を次のように指摘している-
「経済成長、政治とビジネスの分離、プーチン大統領はオリガルヒ(ロシア新興財閥)を権力から追い払い、人々の生活は良くなり、2008年の危機の前まで、国では発展と経済成長がみられた。」
リベラルと愛国
カラチョフ氏は「プーチン氏は当時、若くてリベラルな思想の指導者だったが、西洋の観点からは自由主義にはあまり融合しない特定のバックグラウンドを持っていた」と語っている。
ベスパロフ氏も、愛国主義とリベラル的な経済的見方を結びつけるというプーチン大統領の願望を指摘している。
ベスパロフ氏は「これは今も残っている。この点に関してプーチン氏は事実上変わっていない」と語っている。
西-ロシア-東
ロシア広報協会のエヴゲーニー・ミンチェンコ副会長は「大統領はリベラルな経済改革を上手く実現することには成功したが、西側との関係を構築し、ロシアを『大きな西側』の一部にすることはできなかった」と指摘している。
政治学者らは、20年が経過した今もプーチン政権は経済に対してはリベラルな見方を持ち続けているが、プーチン大統領は西側との関係は見直したと指摘している。
ミンチェンコ氏は「これはプーチン氏が悪いのではなく、同氏が言うように我々の『パートナー』のせいだ。多くの点でこれはウラジーミル・プーチン氏の失望の原因となった。なぜならプーチン氏は、イデオロギー的には欧化主義者だからだ」と考えている。
「プーチン氏は、ロシアと西側は平等かつ完全なパートナーとなることができ、多くのことをいずれかの指導者たちとの個人的な関係が決定すると考えていた」
政治学者らは、2007年2月10日にミュンヘン安全保障会議で行われたプーチン大統領の有名な演説から、プーチン氏の数多くの考えの見直しや再評価が始まったと述べている。
プーチン大統領がより独立した外交政策と、ー極システムから離脱する方針を取ったミュンヘンでの演説の後、ロシアと西側の関係は徐々に悪化し始め、現在、困難な時期を迎えている。
最も急激な関係の悪化は、プーチン大統領の3期目と4期目に起こったウクライナ危機とクリミアのロシアへの再統一の時から続いている。西側はロシアが介入したとして非難、対露制裁を発動し、ロシアは対抗措置を講じ、輸入代替政策を取った。ロシアは、制裁という手段を使ってロシアとやり取りすることは逆効果だと繰り返し述べた。
プーチン大統領は、ロシアは対話を拒否していないが、西側の行動、特に最近のINF全廃条約の破棄とNATOの精力的な活動は、関係改善のために多くのことをしなければならないことを物語っていると何度も述べている。
全ロシア世論調査センターは、国際舞台での困難な状況や、一連の経済問題(西側による制裁)ならびに社会問題(年金受給年齢の引き上げ)により、プーチン大統領の支持率はこれまでの任期中よりも低下していると指摘している。これは、2006年に全ロシア世論調査センターのサイトに関連データが公開されて以来の最低値。