ワルワーラの作品にはロシア・アヴァンギャルドと日本的世界観が見事に融合している。ワルワーラはまだ駆け出しのころ、アヴァンギャルド芸術家らがロシアで初めて結成したサークル「青年同盟」のメンバーだった。この時期、日本の芸術に触れたワルワーラは、描く対象の本質を限りなく無駄のない表現方法で伝えるという手法に影響を受けた。
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ワルワーラは子供のころから絵を描くのが好きだった。ペテルブルク帝室美術アカデミーを卒業した彼女はモスクワの国立芸術文化研究所(通称、ギンフク)に研究員として就任し、カンディンスキーやロトチェンコの薫陶を受けた。この時期のワルワーラは古代ロシアの細密画に関心を持ち、様々な民族の芸術を研究する日々に明け暮れた。
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ワルワーラの妹、アンナはペテルブルク音楽院でバイオリンを学び、同地に留学していた日本人の小野俊一と結婚した。小野はペテルブルク大学の自然科学科に留学しており、1918年に小野夫妻は日本に帰国した。そして1922年、妹を追ってワルワーラも来日し、36年にわたって日本生活を送ることとなった。
日本時代
日本でアンナとワルワーラは思う才能を存分に発揮した。アンナは日本の子供たちにバイオリンを教え続けたことにより、日本人女性バイオリニスト生みの親と呼ばれるに至った。
一方のワルワーラは日本の古典芸術を研究した。そして40歳という年齢で東京美術学校(今日の東京藝術大学)に入学してリトグラフの技術を学び、のちに亜鉛を用いたリトグラフの技術を独自に構築した。様々な時期にワルワーラが製作したカラー・リトグラフ作品は今日まで保管されている。ワルワーラは日本時代に個展を6回にわたって開催しており、いずれも好評を博した。
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ただし、ワルワーラの功績は美術に限った話ではない。ワルワーラは出版社の要請を受けてロシア作家の作品解説を担当したほか、自らロシア文学の古典翻訳にも携わった。1924年からワルワーラは早稲田大学や東京外国語学校(今日の東京外国語大学)をはじめとする教育機関でロシア語とロシア文学の指導に当たった。その間にワルワーラは数多くのロシア文学者を指導し、日本におけるロシア語・ロシア文化の普及に貢献したことが評価され、日本政府より勲四等宝冠章を贈られている。
妥協は知らず、しかし物腰は柔らかく
1958年にワルワーラはソ連に帰国し、スフミ市に居を構えた。当時、ワルワーラは72歳だったが、創作活動に陰りは見えなかった。ワルワーラは創作活動を続ける傍ら、美術の指導を積極的に行った。
ワルワーラの教え子で、個展のキュレーターを務める画家のアレクサンドル・ロゾボイ氏はインタビューの中で恩師について次のように語った。
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「彼女は自分の原則を追及する点では妥協を知らない人でしたが、それと同時に物腰は柔らかく、気遣いのできる方でした。そのため、反逆者の魂と看護婦の慈悲深さを併せ持つような人でした。それは貴族という彼女のルーツに由来したものなのか、あるいは日本での人付き合いを通して培ったものなのかはわかりません。彼女はとても親身に接してくれました。そして権威被ることも、頭ごなしに指導することもなく、私の過ちに手を入れ、正しい道へと導いてくれました。時折日本の話をしてくれることがありました。あるいは、ノスタルジックな感情があったのかもしれません。しかし、彼女はいつも驚くほど行動的で、どんな時も弱気になることはありませんでした」。
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1983年の春、ワルワーラ・ブブノワはレニングラード(今日のペテルブルク)で他界した。そして2016年5月15日、小野アンナと共に功績を称えられる記念碑が東京の多磨霊園で除幕され、ニコライ堂の司祭によって成聖された。
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アンナとワルワーラがともに指導した姪のオノ・ヨーコは、かの有名なジョン・レノンの妻となった。アンナはヨーコに音楽を、ワルワーラは美術を指導した。余談ながら、2019年10月にはモスクワ現代美術館でオノ・ヨーコの個展が開かれる。