寮さん「死刑判決に関して「本人も納得」しているわけではないと、わたしは感じています。いまの日本の法制度の下では、死刑という結論が出ても「仕方ない」と思っているのではないでしょうか。「日本のため、社会のために重度障害者を殺害した」「自分が罪に問われることはない」「名前を変えて生きていける」と信じていた植松被告です。正しいことをしたという信念を持っていれば、死刑判決を不当であるとして控訴してもいいはずです。しかし、控訴をしないと表明。論理的な整合性がありません。
彼の「信念」は、実は本当の信念ではなく、単にいまの政治を鏡のように映してしまっているのではないでしょうか。「一億総活躍社会」という安倍政権のスローガンを、額面通りに受け取れば、「意思疎通もできず活躍できない人は国民として認めない、価値がない、重荷である」という結論に容易に達してしまいがちです。つまり、植松被告は、いまの日本社会における反逆児ではなく、いまの日本の政治に過剰に忖度した人物であるのではないでしょうか。
そのように無批判に権力の言葉を受け入れる植松被告ですから、今回も、権威である裁判所の判決を、無批判に受け入れているとも考えられます。また「裁判は面倒くさい」とも発言しているので、ともかく終わらせたい、逃げたい、という心境かもしれません。「納得」とはほど遠いものだと思います。」
ドストエフスキーの「罪と罰」そのもの
1960年代、ソ連の心理学者アンドレイ・スネジネフスキーによって、統合失調症の種類のうちの一つとして「緩慢に進行するタイプの統合失調症」という概念が生み出された。ロシア科学アカデミー心理学研究所のシニア研究員でモスクワ心理分析大学のアレクサンドル・レベジェフ教授は、「このタイプの病人は間違った正義や使命感を抱きやすい。障害者を抹殺することが社会のためと信じて疑わない植松被告は、この典型ではないか」と推測している。
レベジェフ氏「このタイプの人は普段は健常者と同じように精神の節度を保っているのですが、感情的な要素、あるいは人生経験上のファクターがもとで、あるタイミングでその節度が弱まってしまいます。すると強迫観念、時には幻覚も現れます。そうなると、この人生において自分は一体何者なのかという考えが自分を支配するようになります。こういった事象は歴史上何度も文学の題材になってきました。最も端的な例で言えばドストエフスキーの「罪と罰」です。最初、主人公は、少しばかり世間の常識からはみ出して、自己中心的なだけだったのに、その後、間違った正義感を抱き、自分のことを、この世界を浄化するために天から遣わされた使者だと見なすようになるのです。どうやって浄化するかというと、例えば、売春婦や障害者を、苦しみから「解放」するのです。」
凶悪犯はなぜ、犯した間違いに気付けないのか?
寮さんは、受刑者の矯正教育に力を入れていた奈良少年刑務所(2017年3月閉鎖)で、「社会性涵養(かんよう)プログラム」の一環として9年間にわたり詩の授業を行い、受刑者が自分の心の声を形にする手助けをしてきた。その経験から、植松被告が起こした事件の背後には、「本人の心の傷の問題がある。彼にもプログラムを受けさせてあげたかった」と話している。
寮さん「彼が「正義」と信じたことは、実は傷ついた自分自身の心を守るために作りあげた「鎧」だったのではないでしょうか。もちろんその「鎧」は非常に見当外れな間違った鎧でした。しかし、それに気づくためには、まずは自分の中に心の傷があることを自覚しなければなりません。そのためには、固く閉ざされた「心の扉」を開く必要があります。扉が閉まったままだと、自分自身で、自分の気持ちすら感じることができないからです。自分の気持ちのわからない人間に、他人の気持ちを思いやれ、と言っても無理な話です。
「社会性涵養プログラム」には、心の扉を開く効果がありました。指導者側は、何も指導しません。ひたすら「安心安全な場所・人・時間」を確保することに心を砕きました。「心を開いても攻撃されない、傷つけられない」「弱い自分のままでも受け入れてもらえる」と実感すると、彼らは心を開いてくれました。
一人が心を開いて、自分の弱さを吐露すると、連鎖反応のようにみんなが次々に心を開くという場面も多々ありました。そのとき、彼らの心からあふれでたのは「やさしさ」でした。自分と同じように心の傷を持つ仲間たちへの、思いやりに満ちた言葉でした。
このような状態になって、人は初めて自分の罪と向きあうことができるようになるのです。「正義」と思って信じ込んでいたことが大きな間違いであったと気づくためには、まず心の扉を開き、素の自分を認めなければなりません。そこから、真実の対話もはじまるはずです。プログラムは、彼の信念を矯正するものではありません。彼自身が、自分で自分自身に気づくこと。そこから自然と、犯した間違いに気づく道を拓いていけるようになってもらうためのものです。
「君は間違っている」「重度障害者も人間だ」ということを、いま、いくら彼に面と向かって語っても、彼が鎧を脱ぐことはないでしょう。鎧をますます厚くして、自分を守ろうとするでしょう。「社会性涵養プログラム」のようなものに参加することができれば、その鎧を脱げる可能性が生まれるでしょう。そこから、反省への道が拓かれると思います。」
死刑制度のある国家はリスクを負っている
ロシアにも死刑制度があるが、モラトリアムとなっており、実際には死刑が言い渡されることも、実行されることもない。レベジェフ氏は、殺人はもちろん重大事件として罰されるべきだが、死刑制度のある国家は、社会的な意味で自ら多大なリスクを負っていると主張する。
レベジェフ氏「処罰するための殺害という様式は、人類の歴史の中で、その悲劇的な本質を繰り返し示してきました。ユダヤ人迫害やスターリン時代の粛清を思い出してください。20世紀には無数の残虐な戦争がありました。もし人が、誰かを殺すことを、それがたとえ最も残虐な犯罪を犯した人であっても、肯定するとすれば、非常に逆説的なことですが、結果的に人間そのものが冷酷になっていくでしょう。そうなると、それぞれの人の頭の中で人命の軽視がなされ、罰を与えるために殺すという決定を下しやすくなります。」
寮さんもまた、凶悪犯だから殺してしまってもかまわない、という考え方は、結果的に植松被告の論理を肯定していると指摘する。
寮さん「重度障害者は社会にとって有害だから殺害するべきだ」と植松被告は主張しています。「重度障害者」を「凶悪犯」に置き換えるとどうなるでしょうか。「凶悪犯は社会にとって有害だから殺害するべきだ」という考え方は、植松被告の主張と相似形ではないでしょうか。
参議院議員で重度障害者である舩後靖彦さんは、植松被告に関するコメントで「命の価値は横一列」と語っています。これはとても大切な言葉だと思います。わたしは、この言葉から敷衍(ふえん)して「障害者のみならず、いかなる凶悪犯でも、その命の価値に変わりはない」と考えるべきだと思っています。「死」は償いになりません。どんなことをしても、償いはできませんが、だからこそ、死という方法ではなく、自分のしたことの意味を一生考え続けるという形での償いが必要だと思います。」
不寛容が広がる日本、憎悪による処罰意識の拡大
日本では内閣府が5年に1度、死刑制度について世論調査を行っており、今年1月17日に最新結果が発表されている。それによれば「死刑もやむを得ない」と容認する割合は80.8%で、4回連続で8割を超えた。しかし日弁連は、質問事項自体が死刑賛成の方向に誘導するものだとして、意見書を出している。
寮さん「社会に「不寛容」が広がっていることも肌で感じます。中国や韓国に対する差別は、より過激になり、目に余るものがあります。犯罪件数は減り、凶悪犯罪も戦前よりずっと減っているのに、不寛容が広がっているのはなぜでしょうか。SNSの発達とテレビのワイドショーが要因の一つかもしれません。人々に恐怖心を植え付け、排除の思想を増強しています。死刑制度を廃止した国で、殺人が増えたという報告はありません。死刑が殺人の抑止になるという主張には、根拠がありません。それなのに、死刑存続論が拡大するのは、「恐怖」と「不寛容」、そして「憎悪による処罰意識」によるものではないでしょうか。」
2011年にノルウェーで77人を殺害した連続テロ事件の犯人アンネシュ・ブレイビクは、ノルウェーの最高刑である21年の禁錮刑に処せられている。寮さんは「憎しみと暴力に、より大きな愛と寛容の心で応えているノルウェーの路線はすばらしい」と話す。
寮さん「人が人を殺してはいけない、ということを人類の共通認識にできれば、国家による戦争もなくなるはずです。それでも、殺人やテロが完全に消え去ることはないでしょう。だとしても、殺人やテロや戦争がない平和な世界に近づくために、わたしたちはあきらめずに、一歩一歩努力を積み重ねることが大切ではないでしょうか。ノルウェーにできることが、日本にできないということはありません。ノルウェーの実践は、人類はそのように崇高で尊厳ある存在になれるという、美しい証明だと思います。」