1959年末から1960年初めにかけてモスクワで起きた多くの事実を、後に作り上げられた話と区別するのは今となっては難しい。当時、ソ連のマスコミは沈黙し、公文書は発表されなかった。その時代の人々の回想録の中にでさえ、この恐ろしい病気や隔離に関する記述は残っていない。スプートニクは、59〜60年の冬の出来事について知られている、多かれ少なかれ信憑性のあるものを紹介する。
インドからの「土産」
1959年12月23日、モスクワは天然痘流行の危機に瀕していた。この危険な感染症を首都にもたらしたのは、画家のアレクセイ・ココレキンという1人の男性だった。ココレキンはインドを訪問中、天然痘で亡くなった地元のバラモンの葬儀に参列、家族や友人のための一般的なお土産の他に、葬儀の場で購入したバラモンの私物を持ち帰った。
天然痘は伝染力の強い感染症で、発熱、皮膚や粘膜への発疹、重篤な経過などを特徴とし、回復後は痘痕が残ることもしばしばあり、死に至ることもある。
ココレキンは予定より1日早くインドから到着した。そのためモスクワの空港で入国手続きや税関検査を済ませた後、愛人のもとへ向かった。その時、ココレキンは少し咳をしていた。
12月27日、ココレキンは「重度のインフルエンザ」と診断され、当時モスクワで有名だったボトキン病院に入院した。そして2日後の29日、ココレキンは死亡した。解剖の結果、死因は天然痘だったことがわかった。
天然痘根絶の特別作戦
事態の深刻さが明らかになったのは、ココレキンの死後2日目だった。ボトキン病院のスタッフが天然痘と診断されたのだ。このニュースは国の最高指導部に伝えられた。モスクワとソ連全体が、不治の病として恐れられていた天然痘流行の一歩手前にいた。最後にワクチンの集団接種が行われたのは20年も前の1936年だった。
ソ連のKGB、内務省、保健省は不可能なことに挑戦した。つまり、感染者と接触した全ての人を特定し、隔離した。しかし、ココレキンの妻と愛人がインドのお土産を古物屋に持って行っていたことで、状況は悪化。この汚染されたお土産を追跡するのは事実上不可能だった。
モスクワでは緊急の予防措置が取られた。直ちに天然痘ワクチンの製造が開始され、3日間以内に1000人分のワクチンがモスクワに空輸された。
1960年、700万人のモスクワ市民が天然痘の予防接種を受けた。医師だけではく医科大学の学生も含めた1万人の予防接種チームが編成され、毎週150万人にワクチンが接種された。
1ヶ月後、1人の人物がソ連に持ち込んだ天然痘の流行はおさまった。結果として、ロシア国内の蔓延とソ連外への感染拡大を防ぐことに成功したほか、モスクワとモスクワ郊外の住民に迅速にワクチンを接種することができた。これは、その規模及び期間の面で、世界でも前例のない住民へのワクチン接種作戦となった。
なお、アレクサンドル・ミルチャコフの小説『トラブルが街にやってきた』(1966年に映画化)は、モスクワでの天然痘流行の出来事が、その基盤となっている。