サイバーブーリング(ネットいじめ)の件数はいじめの総数のわずか3%だが、 一方でこの数値の低さはネット空間のいじめをあぶりだす明確なメカニズムがないことと関係している。匿名で行われるという要因が加害者への責任追及を 極めて複雑にしている。
昔からあるのに、なぜ未だに解決策はないのか?
佛教大学の原清治教授はなぜいじめが無くならないかについて、次のような見解を持っている。
「いじめられるということがすごく悪いことのようなイメージがまだ子ども達にも社会の中にも強いです。実はいじめられている人は、勿論、何も悪くないです。しかし、自分に悪いところがあるので、いじめられているのではないかなと思うような傾向はまだすごく強いです。そうすると、いじめられていることをできるだけ隠そうとする部分がどうしてもあります。」
東京学芸大学教育学部の杉森 伸吉准教授は、第2次大戦後の日本では国民全体が飢えており、その時代には犯罪や暴力は日常茶飯事で起きていたと回想する。こうした時代は「弱肉強食」の原則がまさに大手を振っていた。子どもは、脅す者の犠牲になるくらいなら、自分が相手を脅かす側にまわれと諭された。なぜなら犠牲になったら同情を買うより罪を問われるのが関の山だったからだ。
戦後の苦しい時代の論理ははるか昔に置き去りにされているのが道理だが、杉森准教授 は、1980年代のバブル経済であまりにもひどい格差が際立った後、それが崩壊し、この時代になってもなお、社会経済要因は主要な位置を占め続けており、未だに日本は「弱肉強食型の社会」に傾いた状態にあると指摘する。まさにこの弱肉強食型の攻撃、つまり弱く、持てぬ者を圧するという原則が、2011年10月に大津市で起きた当時中学2年生の男子の悲しくも、あまりにも有名なあの自殺を引き起こした。この事件がきっかけとなって日本政府は法的措置に乗り出した。
今、いじめは多種多様で、それが起きた条件も加害者の動機も大きく異なることがわかってはいるものの、日本に育まれてきた社会経済的な特性、また歴史的文化的特性がかなりはっきりした形でこれに影響していることも見えてきた。
「私は、いじめや(木村花さんのような)SNSでの中傷が起きる背景には、日本人の『空気を読む』という特性があると考えています。みんなが『空気を読んで』感染防止につとめている中で感染した者を責めるとか、テレビ番組で態度が悪く見える出演者を叩いてよい空気に多くの人が同調するといったことが、いじめや中傷につながっていると考えています。」
原清治教授も類似した考えを表している。
「周りがみんなで木村さんを非難し始めると、そうすると自分がその集団の中にいよう、自分も木村さんのことを非難しないといけないような、同調圧力という、みんな同じでいなければならないような圧力がネット空間では特に働きます。
さらに、若者たちは乗って、その場の雰囲気をすごく大事にするので、自分だけ違うとか、みんなで意見が違うとかということを人の前で言ったり、したりすることはすごく苦手です。日本人ってみんな同じでいることがとても美しいと言われ続けてきた民族ですから。」
ネットいじめに関して明治大学の内藤朝雄准教授は、ネット中傷など新しい現象ではなく、インターネットが出現して発生したものでもないという見解を持っている。
「インターネットに限りませんが、嫌がらせ電話でも、嫌がらせ手紙でも、加害者は自分が相手から見えない透明人間になる魔法のマント(隠れ蓑)をはおって、安全なところから何でもできるような、ちょっとした全能の気分を感じてしまっていると思います。インターネット、電話、手紙といったものが、そういう全能の気分にスイッチが入ってしまう魔法のアイテムになってしまうことがあります。そうすると普段は立派そうな大人も、子ども地味たことをしてしまいます。
女子プロレスラーの方は、そういうスイッチが入った人々の群に、なぶり殺しといってもようような被害にあわれたと考えられます。ただ、こういうことは電話や手紙や集団陰口などで、昔からえんえんと繰り返されてきた悲劇でもあります。今に限ったことではありませんし、インターネットによって出現したことでもありません。」
出来ることは何か?
「法規制は有効とは考えられませんし、恣意的に運用される恐れもありますので、望ましいものとはいえません。本来、空気を読むことを最優先することをやめ、異質な他者を尊重することが定着する必要がありますが、短期的にそうした変化は望めません。当面有効だと考えられるのは、『みんなで中傷するのは恥ずかしい』『感染症いじめは卑劣だ』という空気をつくることです。テレビやTwitterで多くの人がこうしたことを言うようになれば、短期的には中傷やいじめを抑えることができると考えられます。日本人はよくも悪くも空気を読むので、空気によって生じている問題への短期的な対応策としては、空気を変えることしかないと考えられます。」
内藤准教授もネットいじめには法規制が効果を発揮しうると考える一方で、こうした手法は別のリスクも伴うとくぎを刺している。
「学校のいじめでも会社のいじめでも、大人のネット中傷でも、法規制は有効です。というのは、加害者は自分が損をすると判断したら、行動を止めるからです。加害者にとって被害者は虫けら同然の存在ですから、その虫けら同然の存在のために、大切な自分の人生を破壊してもよいとは判断しません。この残酷な事実を前提に、現実的に考えれば、法規制は利害構造を劇的に変化させるので、加害を抑止するのに大きな効果があります。
新潟青陵大学の碓井真史教授は、今、コロナウイルスの拡大時期にあって人々の間にある相手への不寛容さは増す一方であり、これがいじめ状況をエスカレートさせる危険性をはらんでいると指摘している。学校のいじめではすでにコロナウイルスに感染してしまった児童についての危惧感が表されている。感染した場合、自分は「罪を犯した」側に立つことになり、それがその子への深刻な心理的圧力になりうる恐れだ。
内藤准教授は、子どもが育つ環境である学校教育が根差している原則が変わらない限り、現実的な成果を出すのは難しいと考えている。
こうした例は学校で道徳教育の科目が教えられたところで、それが十分な措置となりえてはないことを示している。
内藤准教授は「いじめによる自殺が近年大々的に報道された大津市の中学校は、道徳教育のモデル校でしたが、それは道徳教育、心の教育、心理教育などが無意味であることの典型的な例です」と指摘している。
原清治教授によれば、日本の学校では新しい学習指導要領を導入するところが増えてきている。この新指導要領は時間がたてば、手ごたえのある結果をもたらすかもしれない。
原清治教授 はまた 「アサーション」という実践にも大きな期待が持てるという。 この方法はいくつかの学校ですでに導入されている。
「やっと、日本でもアサーションという言葉が学校の中でずいぶん言われるようになってきました。アサーションというのは日本語で言うと『自己主張をする力』とよく言われます。自己主張は自分の意見を言うばっかりではなくて、人の意見も聞くと同時なんです。だから日本人は一番不得意なのは『沈黙は金』なんですから、それはやっぱりダメなのです。自分の意見をちゃんと人に言う、その代わりに相手の意見もちゃんと聞く。そうすると、両者の間に意見の違いがあったとしても、それをお互いに認め合って、どこかその真ん中辺にお互いの妥協できるところを見つけていく。そう言うのがアサーショントレーニングと言うんですけれど、そういう自分の意見を言うと言うのはアクティブラーニングの授業の中でもずいぶんと先生方が大事にされるようになってきました。」
「また、ネット上のリテラシーの教育も非常に必要です。そのリテラシーの中に『みたくない情報は見ない』、つまり自分に撮って嫌だなと思う情報を敢えてアクセスしないという、そういうスルーする力、見ない力、気にしない力というものはとても重要だと思います。」
原清治教授は、コロナウイルスのパンデミックのおかげで日本人には結束し、いじめ問題を解決するために自分の価値観を見直すという今までにない可能性が生まれたと考えている。
「寛容性が生まれる社会になっていくとは思わないですけれど、やはり、ポストコロナの時代の中で新しいそのニューモラルみたいなものが求められていく時代ですから、これまで日本人の子供たちと若者たちの考え方や価値観をちょうど今変えていくチャンスだと僕は思っています。この状態の中でつながると言うことが大事だと思うことを多くの人が再認識したと思います。いきなり大人が社会のあり方を変えると言うことは難しくて、したがって、法律的規制することによってよくなることではないです。法律的な解決にはならないと思います。やはり、時間かけても少しずつ社会のあり方が変わっていかない限り、日本のいじめみたいなものはなくなっていかないと思います。」原清治教授はこう語っている。