【解説】コソボ セルビアの塞がらない傷
© Sputnik / Gavro Deshichセルビア・コソボ間のヤリニエ行政区画
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サイン
バルカン半島中部のコソボとメトヒヤの2地域は2008年、コソボ共和国としてセルビアからの独立を一方的に宣言した。セルビアは事実上1999年からこの南部2領域を実効支配していない。9割以上の住民はアルバニア系だが、北部を中心にセルビア系住民も点在している。コソボと中央セルビアの領土は行政線で区切られている。自称コソボ共和国は日本を含む100カ国が承認しているが、セルビアのほか、ロシアや中国などは承認していない。未解決の状況、民族間関係の複雑さが幾度となく状況をエスカレートさせている。ここでは便宜上、コソボ・メトヒヤの2地域を「コソボ」として扱う。
状況先鋭化
コソボは7月末、翌8月1日からセルビアの身分証明書は自称コソボ共和国では無効となり、中央セルビアが発行したすべての自動車ナンバーについて再登録を開始すると発表した。セルビア人は行政区画上にバリケードを設置して抵抗を示し、さらに西側外交の介入によりこの決定は9月1日まで延期することができた。
妥協点を見出そうと、セルビアとコソボによる交渉の新ラウンドが8月18日に行われた。対話は成果なく終了したが、後に外交努力により身分証明書については妥協点を見出すことができた。セルビアはコソボの身分証明書保持者に対する入域/出域書類の廃止に同意(コソボ非承認の表記を義務付け)、一方のコソボはセルビアの身分証明書保持者に対し同書類を導入しないことに同意した。
自称コソボ共和国は10月末、西側諸国の呼びかけにもかかわらず、セルビアナンバーの自動車の強制再登録延期を拒否。セルビアナンバー自動車の使用禁止は11月1日から施行された。11月22日から同ナンバー保持者には罰金が科せられる。
コソボのセルビア人はこの決定に抗議し、未承認国家のすべての権力機関から撤退。一方でコソボ政権はセルビア自治体の再選挙を発表した。11月22日朝の時点で、自称コソボ政権は48時間の延期に同意している。
コソボ問題の歴史
この問題はコソボがセルビア共和国の自治州であったユーゴスラビア時代に遡る。ユーゴスラビア崩壊に伴い、コソボアルバニア系の分離主義者の勢い、また同地域内のテログループの活動が激化した。西側先進国の支援を受け、分離主義者はクーデターを起こした。
ラチャク村でのアルバニアテロリスト殺害は、西側諸国では民間人虐殺事件として取り上げられ、ユーゴスラビア連邦共和国に対するNATOの侵略の引き金となった。1999年3月24日から6月10日までのNATOによる78日間の空爆により約2500人の民間人が死亡した。その結果、クマノフ協定が締結され、コソボはNATO指揮の下、コソボ治安維持部隊(KFOR)に移譲されることとなった。しかし同部隊はセルビア人の安全は確保できず、セルビア人の民族浄化を防ぐことはできなかった。
2005年から2006年にかけてウィーン交渉では状況の解決の試みがなされた。国連はコソボの「監視下の独立」という提案をもちかけたが、セルビア側がこれを拒絶。2008年2月にKFORの任務が終了し、コソボ議会はコソボの独立を採択したが、これは国際法と国連安保決議1244号を大きく違反するものであった。米国をはじめとして主要国は即座に主権を認めたが、国連での支持は得られなかった。
セルビアは年月をかけ、「自治以上、独立以下」を主張し、対話による解決策を見出そうとした。当初は欧州諸国も「まず基準、その後に地位」を掲げたが、これが後に自称コソボの承認に向けたセルビアへの圧力に発展した。セルビアはハーグ国際裁判所に告訴を試みたが、これも失敗に終わった。2010年7月22日、同裁判所はコソボの自称において国際法の違反はなかったとの判決をくだした。
セルビアとコソボ間の長年におよぶ交渉で、唯一の明確な成果となったのが、2013年4月19日に調印された関係正常化原則に関するブリュッセル協定だった。セルビア側は協定の全条項を履行したが、一方のコソボはセルビアにとって最も「深刻な」部分である、セルビア自治体協会に係る合意を履行しなかった。今日、セルビアは今後の交渉の基礎となる本協定の履行を主張し、またセルビア人の安全を気にかけている。セルビア側の最大の目的は、極めて重要な国益を放棄することなく、流血を避けることだ。
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