【特集】「助けて!人が燃えている!」 2014年5月2日オデッサの悲劇 地元ジャーナリストへのインタビュー

© Sputnikオデッサでの衝突、2014年5月2日
オデッサでの衝突、2014年5月2日
 - Sputnik 日本, 1920, 02.05.2023
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9年前の5月2日、ウクライナ南部オデッサの労働組合会館に火が放たれ、生きたまま大勢の人が焼き殺された。スプートニク通信は、「マイダン革命」後の騒乱や2014年5月2日のオデッサの悲劇を報じた同市出身のジャーナリストにインタビューを行った。同氏は現在もオデッサに住んでおり、安全確保のためにアレクサンドル・カタエフという仮名を用いる。
スプートニク:出身はどちらですか?どのような仕事をされていますか?
カタエフ氏:わたしはオデッサ出身です。特殊軍事作戦の開始後、5月末までオデッサの反政府系のメディアで制作編集をしていました。ただ、今また、オデッサにある反政府系のメディアは3つだけになってしまいました。制作編集者の数はさらに少なくなっています。
(編注:2014年の)5月2日の悲劇が起こるまではわたしも制作編集をしていて、事件があった当時はフリーのカメラマンをしていました。マイダン革命があった時は、5月2日の時点では、ニジェゴロドの記事の編集をしていました。
スプートニク:彼らの話を聞いて、どのような気持ちになったか教えていただけますか?
カタエフ氏:あの日、つまり5月2日が終わろうとしていたときの気持ちは表現することができます。今、そのすべてを改めて整理するのはとても難しいことです。というのも、あれから9年のときが過ぎ、あのとき感じたことの上にさまざまな知識が加わったからです。しかし、5月2日、街の中心部ではわたしたちが勝利した瞬間がありました。
わたしたちの撮影チームが、ベンツに乗って、車列を通り抜けて、モルダヴァンカを周回して、勝利の日を祝った瞬間があったのです。しかし、わたしたちがこうしている間に状況は一変しました。
警官による非常線が張られました。 これは後日わかったことですが、ハリコフやドニエプルから、さらに800人がオデッサに派遣されてきました。
そして中心部の状況はまったく変わってしまいました。夕方、もう一度、その場に行ったときには、労組会館はすでに炎に包まれていて、1人の女性が駆け寄り、「助けて!人が燃えている!」とわたしたちの自動車のボンネットに身を投げてきました。
それでも、そこで人が亡くなっているということが理解できませんでした。その時点で、すぐには状況が掴めなかったのです。そのとき、傍に30人ぐらいの人が立っていて、燃えている建物から50メートルほど離れた通りの茂みの向こう側の通りでは、警官たちが何食わぬ顔でタバコを吸っていました。
身体に火のついた人々が窓から飛び降りると、飛び降りるや否や、地面で殺されているのが分かりました。しかし警官たちはただ立って、タバコをふかしていたんです。消防士の姿なんて全くありませんでしたよ。消防が駆け付けてとかいう話は、ずっと後になって出てきたものです。
そのとき、クリコヴォ平原(編注:2014年のウクライナ政権交代後、新政権に反体制する市民らが頻繁に集会を行っていた場所)に行くことはできませんでした。クリコヴォ平原にも軍のキャンプが2つあり、その両方が燃えていました。「生き生きとした顔の素晴らしい人」たち(編注:ユーロマイダンを盲目的に支持するナイーブな市民らを皮肉って)の非常線があり、通り抜けることができなかったのです。黄色と青のリボンとか、番号の入ったヘルメットとか(そこではみんなヘルメットを被っていたので)、そのような認識マークがなければ、絶対に通してもらうことはできませんでした。
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スプートニク:労組会館に着いたとき、周囲はどんな雰囲気でしたか?
カタエフ氏:わたしは撮影チームのメンバーとして、中心部にいました。わたしたちが到着したときには、すでにすべてが燃えていました。そこでわたしたちの「エクスペリエンス(経験)」は終わり、わたしたちはとても悲しい気持ちで、がっかりして家に帰りました。これは労組会館の話です。
どこかの司令部に座る陰謀者が、誰をどこまで追いかけて、どこで誰を攻撃しろと指令を出していたと言われていますが、そのようなことはなかったと私は断言できます。当初の意図はマイダンが、オデッサでどれだけ支持者らを強力に惹きつけることができるのか、その力を見せつけるデモンストレーションを行うというものでした。
2013年秋に始まったマイダンは5月2日までつながっているのです。デューク(編注:リシュリュー公爵の像のこと。ポチョムキンの階段の前にある)の近くにマイダン革命派たちの陣営がありました。多いときには70人ほどが集まっていましたが、たとえばバンデラの誕生日など特別なイベントがあるときには、他の都市から来た人など合わせて、500人ほどが集まりました。100万人都市にですよ。それだけの数ですから、お判りですよね。
つまり、5月2日まで、基本的に誰も彼らのことを重要視してはいなかったのです。ただおかしな非常識な人がいるとしか思っていませんでした。数ヶ月前に、(ヘルメットの代わりに)鍋を被ってマイダンを走っていた人たちの仲間だと。そんな程度だったので、誰もこれをシリアスには受け止めてはいませんでした。しかもオデッサの人たちは(首都キエフで起きたマイダンは)実際目にしていないのです。ああ、首都で幾人かの活動家がばかなことをしでかしたな、くらいにしか思っていませんでした。
その後、反対の勢力として、オデッサで親ロシア派の集会が行われ、最後の集会には2万5000人もの人が集まりました。わたしも集会に参加し、すべて撮影しました。ロシア国旗を掲げて、「ロシア!」と叫び声を上げました。2万5000人の参加者が、クリコヴォ平原から、街の名所のある地区を通り、海まで歩きました。
これは政府側の人員ではありません。そのとき、政府の人員はもういなかったのです。というより、正確に言えば、いるにはいたのですが、すでにマイダン革命派の手に渡っていたのです。つまり、こういった状況では70人ばかりの若者が寄り集まって何かをしていても、大事には見えなかったのです。
それにですよ。5月1日だったじゃないですか。つまり、休日でみんな、バーベキューを楽しみに郊外に出かけていたわけですよ。重要なことはオデッサの人々は(編注:集会などにいかず)家にいたということです。
本当に、不条理な気持ちは消えませんでした。わたしたちが中心部に着くと、通りの向こうの横丁で乱闘騒ぎがあり、石や棒が投げられ、人々の叫び声が響いていました。しかし、通りのすぐ向こうの交差点にあるオープンカフェでは人々が座ってコーヒーを飲み、10人ほどの人たちがこの乱闘を携帯電話で撮影していました。「聖なる戦い」の「立ち上がれ、大国よ!」といった呼びかけはありませんでした。(編注:キエフの新政権に反対した集会の行われていた)クリコヴォの参加者たちの中に、プロの軍人はいなかったと思います。
スプートニク:傷は癒えつつあると感じますか?
カタエフ氏:いいえ。記憶は薄れませんし、傷は癒えません。残念なことに、多くの人が亡くなっています。つまり、48人の犠牲者が出たのです。―正確には47人の犠牲者と1人のマイダン革命派です。人間らしい犠牲者だけを数えれば47人です。現場には全部で300人ほどがいました。多くの人が煙を吸い、重軽傷を負いました。多くの人が長期にわたって治療を必要としました。拘置所に収監された人もいます。そんなところで健康を取り戻せるはずがありません。そして多くの人たちが亡くなりました。
アルコールを飲むようになった母親もいますし、麻薬に依存するようになった人もいますし、亡くなった人もいます。つまり、もう、家族にこの衝突に参加した人がいるという証人も、もうそれほど多くは残っていないということです。
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スプートニク:どのような理由で収監される可能性があったのですか?
カタエフ氏:マイダン派が勝利してから、やたらと市民が収監されるようになりました。つまり私たちが牢屋に放り込むのは、生き残った人であって、放火した人ではありません。なぜなら「野獣」の世界の掟では強い者が正しいからです。
この掟はどちらの側にも同じものが機能しているんです。社会を今、2つの部分に分けてみましょう。実際はもっと細分化されているんですが、それはいいとして、賛成という人と、意義を唱える人の2つに分けることができます。この2つの対立がどういう道をたどるか。むこうはこちらを屈服させ、殺して土に埋めてしまいたいと思っている。私たちは逆に向こうを倒し、埋めてやりたい。ここに妥協点は一切存在しないのです。
相手は捜査であなたのところにやってきて、あるもの全て持ち去りますよ。つまり、何らかのありふれた罪で収監されているところに、5月2日の調査だといって、取り調べが行われるのです。運が良ければ、家にあるコンピュータを没収され、その後、一定期間、監視下に置かれるだけで済みます。
しかし、いつ呼び出されたり、書類にサインさせられるかもしれませんし、後でその紙を友人に見せられることになるかもしれません。すると友人たちも書類にサインします。
あまりにも激しく抵抗すると、拘置所に入れられます。
さっきも言いましたが、彼らは手榴弾を持ってきて、それをテーブルの上に置き、証人を呼びます。相手はこんなことはあなたを白状させようとして、するんじゃないんです。
たとえば、わたしはあなたたちと話していることを理由にいま、収監される可能性もあります。しかも罪状は、国家反逆罪です。これは非常に長い期間になります。
スプートニク:犯罪者が裁かれる日が来ると思いますか?
カタエフ氏:公正に裁かれる日などくるわけないですよ。なぜなら、それぞれの人の罪の等級や刑罰を決めるローマ法という考えがあるからです。
この事件(編集注:オデッサ労働会館放火事件)の判決が言い渡されるのであれば、ドンバスでの戦争も含めて、マイダン後に行われた全犯罪に対する判決が下されねばなりません。仮にローマ法が健在だったとしても、何にもなりません。なぜなら集団責任という見地からアプローチしなければならないからです。
ガソリンを持ってきた人、それをボトルに注いだ人、火炎瓶を持ってきた人、火をつけた人がいるわけですが、最終的な結果の責任を取る人はいないのです。わたしは何もやってない、と。それは自然発生的に燃えたのだ、と。
しかしわたしは、広場にいたすべての人が、少なくとも、大量殺人の罪で罰せられるべきだと確信しています。
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